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文章はなんのために

おはようございます。

昨日noteを初めて書いたら、スキをいただきました。

反応してもらえるのってとても嬉しいですね。

どこかの誰かが読んでくれている、それだけで励みになるのが不思議です。

やっぱり自分が心の奥底で誰かと交流したいと思っているという証拠かな。

とにかくまず初日、書いて良かったと思いました。


ところで、文章を書くってどういうことだろう、と考えていました。

文章の書き方や読んでもらうために必要な心構えなど、様々なメディアを通じて、いろんな立場の方がご意見を発信されていますよね。

そうしたものを読んでいると、中には良い文章を書くための技術論を強要されているように感じるものあり、これでは気軽に何かを書こうとしている人は、ためらってしまうのではないかと感じました。

少なくとも私はそう感じました。

「文章とはこうあるべき」という意見を読むと、私は文章が下手で、本当は人に見せる文章を書いてはいけないのかな、と。

こういうことを自分が思うこと自体がとても嫌だなと思ったのですが、書かれたご本人が意図されているかどうかに関わらず、こうした「べき論」はこれから書きたい人の中に自信や意欲を無くす私のような方もおられると思います。

文章の話に限らず、職場や地域の人とのやりとりでも感じているのですが、こうでなければ、という「べき論」を押し付けてくる人は、きっとご自身がそうした環境で押し付けられたことに気が付かず、自分の作った世界から出られないんだと思います。そして、その苦しみを無意識に人にも強いる。

恐らく、世の中には、自由な表現でもっとご自身を豊かに創造されている方はたくさんおられて、そうした方に脅威を感じているのではないかとも思います。

でも、そうやって自分の身を守るために相手に放つ言葉は、相手を精神的に傷つけることもありえるし、少なくとも私の場合は、そういう人と関わると自分が傷つくだけなので、距離を置いて静観する立場です。

これはあくまで私の経験をもとにした個人的な解釈です。


でもきっと、自分が違和感を感じるものや人に出会ったとき、そこで何を感じるか、に本当の自分が問われているんでしょうね。

それを嫌だと感じる自分。

それが、本当の私なんですよね。


私は文章が好きですし、自信があるか、とか、上手いか下手かなんて考えたことはありません。
そんなことを考えたら、伝えたい意欲がなくなるからです。

文章は、上手い下手ではありません。
そこに、その人のオリジナリティがあるかどうか、です。言いたいことがちゃんと言えているかどうかです。

文章に、言葉に、その人らしさが出ているかということです。

上手い、下手は全く関係ありません。

文章が上手くても、何も響いてこない文章もあれば、書き方は形式にとらわれていなくても、心を打つ言葉や文章があります。

確かに、論文や企業の企画書は、自分の主張だけでは書けません。相手に理解され、納得してもらうために、エビデンスや数値、データが重視されます。

出版社での編集業務と研究者として論文を書いたり学生に教える経験を持つ私は、少なからずそうした類の文章を書いてきたので、そういった分野で形式が重視されることはよく理解できます。

ただ、noteやブログなどのSNSは、論文や企画書とは全く違います。

むしろ、好きなこと、思うままを、書くものだと、思っています。

自分の中にあふれてくる思いを表現したり、共有することは、そうした思いを持つ人と繋がったり、励ましたり、良い効果を生み出します。そして、自分のことを中心に書いているようで、実はそこに他者との関係が影響していたり、本や映画から影響を受けていたり、など、外界との関係が表れています。そう考えると、そもそも自分の気持ちのみで書く、というものは存在しないのかもしれません。

だから、文章の技術や書く「形式」にこだわっていては、何も生み出せないのです。

肝心なのは自分の思いです。

自分の思いを、切々と、自信がなくても、こうして言葉につづる。

それってとても素敵なことですよね。

その紡ぎ出される言葉の順番や、書き方にこそ、その人が表れます。

こうしていま、SNSで多くの方が文章を書くようになったのも、胸の内に抱える思いを言葉を通じて誰かと共有したい、そういう背景があるのではないでしょうか。

そのことに関連して思い浮かんだのは、大正時代から戦中、戦後にかけて、市民の中から起こった生活綴方(つづりかた)という教育運動でした。

生活綴方とは、大まかに言うと、自分の体験をもとに、自分の言葉で子どもから大人まで、さまざまな個人の経験を作文として書くことを指します。そうした作品の中では、家業を手伝いながら学校に通う農村の子どもたちの日々の暮らしや、農民らの貧困の苦悩、また抑圧された農家の女性たちの社会に対する切実な要求など、それぞれの想いが描かれていました。

時代的な文脈は違いますが、SNSは現代の綴方とも言えるような気がします。

日常を自分の言葉で記述する、という点では同じに思えます。
そしてその表現の中に、その時代ごとの空気やその人の生き方の魅力が存分に表されている。そういう気がします。

さらに、戦後の日本は共同体の破綻によって、地域や家族内の共同作業が失われ、会話や身近な人との触れ合いが失われていきました。今を生きる私たちにとって、こうしてインターネットに思いをつづり、人と共感しあう機会が生まれてくることは当然といえるのではないでしょうか。

自分が自分に興味をもつ。

自分がとてもあたたかく、素晴らしい存在なんだと思える。

傷つきやすい自分こそ、素晴らしい存在なんだと思える。

自分が傷つきやすく、嫌な思いを感じやすいからこそ、そういう人の心が守られるような言葉を用いていきたいです。

最後に、最近とても面白いと思った本に、校正者の牟田都子さんが書かれた『文にあたる』(亜紀書房)という本があります。そこで引用されている、物理学者で随筆家の寺田寅彦の言葉をご紹介しますね。

「間違いだらけで恐ろしく有益な本もあれば、どこも間違いがなくてただそうして間違っていないというだけの事以外に何の取柄もないと思われる本もある。」

寺田寅彦著「読書の今昔」東京日日新聞昭和七年一月

今日も移動や体調に気をつけてお過ごしくださいね。

何か書きたいと思われているみなさま。
自分らしく、自由に、好きなように書いていきましょうね。








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