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どこかに行くと思って過ごして

 引っ越しはいい、自分の生活の単位が短くなるから。

 「僕は引っ越しや長期の旅行なんかで自分の生活が変わると少し不安になる。不安になって、毒にも薬にもならないことやものの多量接種を始める。なんとなくエッジのないコンテンツなんかを好むようになるのです。いつもの自分であれば見ないであろう山も谷もないものを見ることで、自分の精神状態も凪のようになればと心の何処かで思っているのかもしれません。そうして自分の部屋が出来上がるまでこれを繰り返します。この間、引っ越した街の悪いところを言い始めて、3日すると言わなくなります。まずこれが僕の引っ越しにおける第一形態で、引っ越し当日〜7日くらいのことです。

 第一形態が終わると家の周辺の町にも少し慣れてきて、部屋も自分のものとして定着してくるのですが、まだアウェイ感を感じます。見慣れない駅や街をみて、どこか緊張したまま馴染んだふりをして街を歩きまわります。まだ色んな手続きを完全に終えていないのでいつも、出さなくてはいけない書類やしなくてはいけない電話のことが頭の中のメモリを奪っています。これが僕の第二形態で、この期間は引っ越してから約1~2週間くらいの出来事です。

 次に、一通りの手続きを終え町にも部屋にも緊張しなくなった僕は、いまいまでの変化の嵐が尾を引き、一日がとても長く感じ、変化の多い状況にもあまりストレスを感じなくなります。新しい習慣が増え、いろいろなことを始めるのにいい機会です。第三形態は気持が少しハイになったようで心地の良い期間でもあります。2週間から90日くらいのことです。

 約二か月を超えると環境は板についてきた感じになり、前いた町とあまり変わらないようにふるまうことができます。ルーティンもでき、毎週を周期的に過ごせるようになります。落下が始まった第四形態です。

 1年たつとむしろ前の家がノスタルジックに感じるほど今の町が日常になります。変化のない日を受け入れるようになり、月単位で物事を考えるようになり、少しさび付いたような感覚を覚えます。第五形態です。

 10年たつと完全に根を張り、山はどよめき、日は陰り、鳥はさえずり、鹿は鳴いて、やがて文明は面影を失い、かつての地球が姿をとり戻します。烏賊いかが支配者になるという説もあります。第六形態です。

 …そんな訳で僕は第三形態の自分が好きなので、あまり一つ所に留まれないのです。おわかりいただけたでしょうか?」

 学生時代の僕はそんなことを言って他人の好意をけむに巻いた。自分はどこか今の自分も想像できない程遠くに行くと思っていたからだ。しかし、僕はあの頃と同じ町にいる。いつか思い描いた僕の桃源郷には行けずに。

 「何であんなことを言ったのだろう」

 かつての自分を思い出し、そう考えた自分は、どこの街にも行けないままいつもの町の橋の上で甘い紅茶を飲んでいた。


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