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人生は漫画のコマである ー高野文子「奥村さんのお茄子」ー 5話

書き残していたことがあった。

 エンディングでは、醤油さしの先輩が撮影したところの奥村さんの記憶がフラッシュバックのように再生された。体育の授業中の佐久間君。佐久間君たちのドッジボールを見学している今井君。今井君が芝生をむしっているのを注意する浜田先生。浜田先生の白いズボンをカッコいいなと思いながら自転車で移動している郵便配達員の千葉さん。ポストに投函しているユキコさん。ユキコさんの姿を横目に移動しているトラックの下田さん。

 これらの6人それぞれが、数コマの3秒の間「自分以外の誰かを見てその誰かについて考えて」いたことが確認できれば、奥村さんがお茄子を食べていたことが立証できるのだと、お姉さんは仮説的な理論を語りだす。「こちらの世界の人間はそんなことまで記憶していない」と答える奥村さんに返答することなく、お姉さんはまたどこかへと消えてしまう。

 しばらくすると、駆け足で奥村さん宅に戻ってくる。果たして、お姉さんは、これらの6人の人物それぞれに聞き取りを実施し、6人がその時に何を考えていたかを聞き出すことができたと、奥村さんに報告するのだった。

 エンディングの、奥村さんがお茄子を食べていた3秒間に、奥村さんの近くで6人の人物のコマのフラッシュバックの映像は、人生の中にある沢山の「一瞬」の希少さを認識させるともに哀しさを感じさせるものだ。その理由は、コマの連続として切り取られた「一瞬」の映像は、もう取りもどすことはできない過去の記憶であるとともに、複数の人物の記憶をつなげなければ構成できない(集合記憶とでもいうべきであろうか)ものだから、ではないだろうか。

 いささか偏った感想に始終したかもしれないので、このレビューを終える前に小説家川上弘美さんによる書評を引用しておこう。

「奥村さんのお茄子」は、それらの瞬間が、実は「しあわせ」や「不幸」を感じた主体である「自分」だけで成り立っていたのではないことを、教えてくれる。ひらたく言うならば、世界にいるのは自分だけではない、自分以外のもろもろの方がよっぽど世界にとっては大きなものなんだよ、ということを。
<中略>
すでに終わってしまった瞬間を切りとる一コマ。その一コマに、さらにある、奥深い広い世界。その広い世界の中にいる、自分というちっぽけな存在。その自分というちっぽけな存在の感じるさまざまな感情。たとえば「しあわせ」、たとえば「哀しみ」。たとえば「不幸」。
しあわせは、いつか終わるものであるし、しかもいつ終わったかわからないような曖昧なものだし、そのうえしあわせが持続していたとしても今感じるしあわせは今の現在のものではなく、いつだって少し前の、タイムラグうぃ持ったしあわせなのだし、さらにそのうえそんな「しあわせ」を感じる自分は、世界の中のほんの一滴の水のようなものに過ぎない。という、くらくらするような認識。
それら全部をひっくるめて、高野文子の作品はわたしたち読者を「あの瞬間」に連れていってくれる。

出典:川上弘美「大好きな本 川上弘美「書評集」 朝日新聞社」

 感想として、多少異なるところもあれば、共通するところもあったようで、このような確認作業も小さな幸せを与えてくれるものだ。

追記:ユリイカ2002年7月号「特集 高野文子」には「奥村さんのお茄子」が雑誌「アレ!」に掲載されたバージョンが収録されている。実は、漫画短編集「棒がいっぽん」への掲載に際しては、初出のバージョンは表紙以外全て書き直されたとのことである。
 この初出バージョンを読んでみると、確かに、漫画短編集バージョンに比べて、コマ割りの大胆さは抑えられている。ペンのタッチも絵コンテのような軽さと穏やかさがある。難解なテーマを解説するようなわかりやすさがある一方で、漫画短編集バージョンを読んだあとではかえって冗長に感じるところもある。それでも、この漫画の備え持った本質に変わるとことはなかったと付け加えておこう。


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