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エッセイストを育てる家 一話 ドラマ「小石川の家」レビュー 幸田文・青木玉・久世光彦

 昭和、特に戦前には名エッセイストを育てる家があった。それはどのような家(建物と家族そして父)なのか、いくつかのドラマを通して考察してみたい。

 使用人がいる商家や大家族の住むお屋敷ではない。恐らくは名のある旧家の次男または三男が東京に出て自分の家を構えた。家族のそれぞれに小さな部屋があてがわれ、そこからほかの家族の部屋を通り抜けなくても出入りできるように廊下や縁側が備えられている。外からはガラス戸を介して室内の様子は多少伺えるし、ガラス戸を通して庭や離れの家の様子も観察できる。つまりはその程度には開放的であって、部屋ごとのプライバシーは保護されている。その一方で、家長と相互の監視の状態にある。これは演出している名プロデューサーの久世光彦の好み(おそらくは思い出)であり久世のテレビドラマでの「家」の基本的な設定である。

 「小石川の家」は、幸田露伴の孫の青木玉の同名エッセイと同じく娘の幸田文の「父・こんなこと」「ちぎれ雲」を原作として筒井ともみが脚本を書いたテレビドラマである。エッセイで描かれた幸田家でのエピソードをつないだドラマであることもあって、ストリーの展開は緩やかで波乱万丈ではない。

 ドラマは、昭和十五年。文子(田中裕子)が女学生の玉子(田畑智子)を連れて小石川の伝通院近くの実家に帰ってくるところから始まる。実家「加蝸牛庵」には露伴(森繁久彌)が女中さんと二人で住んでいる。ドラマのオープニングは明日から実家に移る文子と玉子の姿から始まる。文子は玉子に実家に戻った時の祖父への挨拶の練習をさせながら、「口ごたえや重ね返事はもってのほか」祖父は行儀や躾に厳しい人なのだと言い聞かせる。薄暗い部屋の中に二人の顔は電灯でほのかに照らされ、二人のこの先の生活での不安を示している。

 重苦しいオープニングに少し緊張しながら、視聴者が次の映像を待つ。すると、室内楽が流れてタイトル紹介へと進んで、小石川の実家は山の手の閑静な屋敷を示すように少しばかり明るいトーンで描かれ、少しばかりほっとする。それでも、オープニングで視聴者にも予告されていたように、露伴に挨拶する玉子たちは、ボソボソ声の挨拶がなっていないと、返答一つごとにチクチクと言い返される。終わりは説教じみた話で、「厳しく口やかましくいっときも気を休むことができない」祖父に今後の生活が大変だと玉子も視聴者も思う。

 幸田露伴は、三年前に文化勲章を授与されており、文豪としての名声と社会的地位を勝ち得ていた。世間からすれば不平不満のない生活かと思うところだが、実は私生活はそうでもない。四十三歳のとき妻きみを亡くし、その2年後には長女歌、五十九歳のときには期待していた長男成豊が亡くなる。いずれも肺結核である。仏壇の中にはこれらの遠くに行ってしまった人たちの位牌が並ぶ。露伴は歌の亡くなった年に後妻八代をもらうのだが、六十六歳のときから別居しているのである。つまりは、露伴は大勢いた家族がみんないなくなった家に女中の世話になりながら寂しく住んでいたのだった。

 そのようなわけで、離婚して実家に戻ってきた文子のことは、ふがいない奴だとは言いながらも、自分を頼って実家に戻ってきたことは嬉しいが顔には出さない。玉子も故事成語を教えてやるにはかなり物足りない相手ではあるが、女の子であり家の中に花が咲いたようなところはまんざらではない。

 露伴は、漢籍、古典文学から歴史まで、並ぶものもいない博学の文豪であるが、昔からの家での作法や礼儀から雑巾がけ、鰹の削り方といった家事のことまで精通している。まだ家事手伝いも未熟な玉子は家事のはしばしを注意され、露伴の機嫌の悪い時は、漢籍や故事成語を交えた訓示を滔々と聞かされるのだった。父をたてる意図もあったのだろうか、露伴の前での文子は玉子に対して一層と厳しい態度をみせる。もっとも文子はいつも父の小言を黙って聞いているだけではなく、父親の様子にあわせて、時に献身的な妻のように、時に天真爛漫な童女のようなくったくのない笑顔をみせる。田中裕子一流の演技である。

 ドラマのストーリーは原作のエッセイで初出のエピソードをつなぎながら、淡々と進行し、大きな事件は起こらない。登場人物の会話を聞きながら、台所での炊事の手順、家屋と調度品、庭の木々・花々といったものを楽しむことがこのドラマの味わい方であろう。
 
 ストーリー展開の少ないドラマの中での小さな事件と言えば、別居している後妻あき(八代)が戻ってきて、露伴と家の相続やこれからの生活のことを切り出して、結論の出ないまま帰っていく。帰りは自分が雇っているという女中を連れて行ってしまう。改めて、露伴が家族に恵まれていないことを視聴者に伝える。これからは文子と玉子が家事を全てやることになる。

 ある日、文子の夫の幾之助(蟹江敬三)が電話をかけてきたことをきっかけにして、文子は幾之助と逢引旅館で会って話をすることになる。幾之助と離縁した理由は事業が失敗したからだったが、その後の幾之助は肺結核がひどい様子で、一目玉子に会いたいと文子に頼むが、文子はこれを断る。家に戻って空を見つめる文子は、いよいよ自分にはこのやかましく年老いた父の家しか居場所がないことを改めて認識する様子だった。

 露伴も身体の不自由なことが増えてきて、手に力が入らない。時には床に臥せながら、原稿も口述の筆記を書生さん(ダンカン)に頼むようになると、露伴は一層気難しくなるが、文子は露伴の心情をよくわかっている文子は逆らうことなく、父に従うのだった。

 やがて太平洋戦争が始まり、叔母は長野へ疎開すると挨拶に来るが、身体の弱っている父がいるため、文子たちはすぐに疎開することもできない。空襲警報が鳴ったときは防空壕の代わり押し入れに父を押し込め、何枚ものふとんで身体を包んで、必死に父を守ろうとする。「これがお前流の安全か」「どこの子だって親と一緒に居たいんです。大事だからです」田中裕子のこまやかな愛情表現と森繁久彌の円熟味が光るシーンである。

 ここであたらめて文子たちが露伴と住んでいる家について説明を加えてみよう。門には「蝸牛庵(かぎゅうあん)」と揮毫した扁額がある。実は小石川に引っ越してくる前の向嶋の家も同じ名前をつけており、露伴には人は「やどかり」のように家をかえていくものだという考えがあった。露伴は下谷にあった幕臣の幸田利三の家の四男として生まれた。代々、大名の取次する表御坊主衆の役職にあった。

 江戸時代に生きたとしても跡継ぎではないので、分家か養子に行くしかなかかった。大政奉還されると、旧幕臣の実家は禄という収入を失い、四男は自分で仕事を見つけて働き、世の中で名をあげ新しい家を建てていくことが使命である。もちろん露伴だけが特別ではない。母の猷の教育の甲斐もあって露伴の兄弟もそれぞれ家を出て身を立てていく 兄の郡司成忠は海軍の軍人・探検家として、弟の幸田成友は歴史学者、妹の幸田延と安藤幸は、それぞれピアノ・ヴァイオリンの奏者と音楽教育者として名を遺した。

 人類学者山口昌男の「『敗者』の精神史」その他の著作は、大政奉還や戦争などの敗者・挫折者の中から事業家・趣味人が生まれてきていることを指摘している。同書が取り挙げていないが幕臣の家の出身という点ではまさに幸田露伴はその典型例であろう。

 上述のように、文子が出戻ってきたときに露伴は、世間からみれば文豪として成功をおさめているものの、期待していた長男成豊には先立たれ、そのほかの家族も結核で死んでしまった。後妻とは別居状態にある。老境の入り、この家と稼業をつぐものはいない(もっとも文筆業は世襲の職業ではないが)。蝸牛庵と揮毫したように、終の住処の家などははかないものあって、代々相続していくほどのものではない。もう江戸時代でも将軍に使える幕臣でもないのだ。それでも、幸田家の矜持と精神をこの世の中に承継していきたいとは思う。世の中は、賢くない政治家がとんでもない戦争を始めてしまっている。こうした不安と鬱屈は家人への叱責という行動に現れてしまうのだ。

 幼いころから厳しい父の躾に泣かされて育ってきた文子は、父の顔色をうかがい、また心情を察知して、そつのない対応をみせる。もちろん形だけではなく父親が大切だとの思いはゆるぎない。一度は世帯を持った経験もあるので、判断もしっかりしている。こういった、厳しい父との生活と父を含めて物事を観察する力が幸田文のエッセイストとしての素養となったのだった。江戸時代の幕臣幸田家の復興の精神が、露伴を介して幸田文にまで影響したと言えるであろう。

 すぐには疎開はしなかった露伴と文子であるが、疎開の準備も整い後妻の実家のある長野県の坂城にしばらくは移住する。留守中の蝸牛庵は空襲で焼けてしまい、終戦後は千葉の菅野に移り住む。その地で露伴は昭和二十二年に八十歳の生涯を終える。ドラマでは露伴の亡くなるときのことや葬儀のことはふれずに終わりにしている。

 ドラマでは露伴の逝去後のことには説明されていない。露伴が亡くなるまで、交流のあった岩波書店二代目の小林勇がたびたび蝸牛庵を訪れており、幸田文親子のことも気遣ってくれたようである。露伴が亡くなる前の父親との日々についての随筆(「父・こんなこと」)を書くことになる。この随筆が評判になった背景には小林勇の下支えぶりもうかがえる。もっとも、世間での実力以上の評価を気にした幸田文は断筆宣言をして、芸者置屋の住み込み女中で働き始めるほどだった。

 一方、幸田文を介してというより、直接に露伴の謦咳に接した青木玉といえば、母文子が1990年に亡くなり母の全集編集に関わる中で、祖父露伴の小石川での蝸牛庵での思い出を書いた(小石川の家)。1994年のことである。蝸牛庵での生活から約50年、旧幕臣幸田家が禄を失ってから100年以上たっていた。

 個人的な体験であるが、春日の駅から伝通院に上がる途中の善光寺の前にある大きな老木を見上げたことがあった。ドラマの映像にあった蝸牛庵のあの木はまだ残っているのだろうか。

参考文献 関川夏央「家族の昭和」
幸田文「父・こんなこと」幸田文全集1巻
青木玉「小石川の家」
山口昌男「『敗者』の精神史」





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