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映画「自転車泥棒」レビュー 失われた円環あるいは父の教訓 2話

 「自転車泥棒」はリアリズムの映画なので、難解な映画に頻出する象徴やシンボルだけの謎めいた映像は現れない。タイトルは自転車であるが、それは盗まれた自転車であって、回転するイメージとして自転車での走行シーンもあまりない。それを前提にした上でで、自転車のイメージを奔放に想像してみよう。誰も一度は自転車に乗ることを会得すれば、普段は乗っていなくても乗りこなせることはできる。ただし、自転車とは、漕いだら止まらずに進み続けなければならない。自転車操業とは、右のペダルで仕入れにお金を支払ったら左のペダルでまた商品を売りさばいてお金を得なければならないことだ。それが止まったら地面に転げるだけである。農家や漁師と違って大地に根付いていない都会の職業人の性である。
 
   その上で、都会では田舎以上にコミュニティこそが経済的庇護の場であって、庶民はそれぞれコミュニティの中で助け合ってお金を循環させて生活をしている。つまりは自転車で回転するタイヤとはお金が回転するコミュニティのシンボルである、と仮説を展開することもできるだろう。

   自転車をぬすまれた主人公は、もはや頼るべきコミュニティを削がれた状況を象徴的に示している。歩行者にとってはぬかるみに靴を汚すこともない石畳の道であるが、自転車の移動はガタガタと不安定な大地の上でユラフラと生きているようなものである(種村季弘、私の自転車修行)。それに加えて自転車をぬすまれてしまった主人公は、まるでタイヤが一つとれた一輪車状態でそのハンドル操作もままならないまま街をさまよい続ける亡霊である。
 
   犯人探しに絶望した主人公は、今度は他人の自転車を盗むことを企てて、すぐに周囲の通行人に捕獲され、企ては失敗する。つまりは自転車を盗まれた自分が自転車泥棒になってしまうのだ、まるで亡霊どころか、ミイラ取りがミイラ、鬼に噛まれた鬼ではないか(鬼滅の刃)。

   これこそがタイヤという円環の喪失である。タイヤそのものは経済的な資源はないが回転し続けることだけが唯一の価値なのだ。昨今のポスト高度成長経済の原理も大きくは違わない。

   自転車泥棒という概念とストーリー設定は、現代ではなかなか難しい。それは現代ではチャリンコは便利な移動手段ではあるが、それを盗まれても生活が困窮することはないからだ。自転車の窃盗は、罪の意識の低さとイタズラの狭間を逸脱しない。自動車泥棒は存在するが、高級ロードバイクの転売以外にその必然性は思いつかない。その点では自転車泥棒は、映画が制作された時代をうまく説明はしている。

    ここまで自説を展開したところで、重要なテーマを書き漏らさないよう話を進めたい。映画には主人公の父親の自転車探しにどこまでもついてくる子供が登場する。

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