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映画「サンセット大通り/ビリー・ワイルダー」レビュー ー 怪談の生まれるところと監禁される小説家ー 1話

 評論家の種村季弘氏は、ビリー・ワイルダーの映画を「気分の好い、ある晴れた日に、ヨーハン・シュトラウスの音楽を聴いたり」するような贅沢な時間だと評している(「楽しき没落」)。彼の映画は「オーストリア=ハンガリー二重帝国という古いヨーロッパの文化の没落後の余韻を楽しむように作品は作られている」のだという。確かに、このビリー・ワイルダーの映画のタイトルの「サンセット大通り」は、よくある華やかな大通りの名前ではあるが、サンセットつまりは黄昏の時間を示していることにはすぐに気づく。
映画は、プールに浮かぶ死体のシーンで始まり、視聴者は前後の脈絡の要領を得ないまま、映画の世界に誘われる。次のシーンでハリウッドのしがない映画脚本家の男性が借金の取り立てを逃れていることがわかる。その主人公がたまたま逃げ込んだお屋敷の女夫人が往年の名女優だったことから話が本格的に始まる。

 屋敷の一階のフロアはゲストを招いてパーティするのに十分なホールと二階へ続く螺旋階段。妙齢の女主人の女優時代の若き日の大きなスチール写真が壁に飾られている。豪奢だが少しカビの匂いもしそうな重く沈んだ古臭い内装である。そこで忠実な召使いの支えのもとで、女主人はおそらくは五十歳ぐらいであろうか、新作の映画の出演依頼を待ちながら毎日を暮らしている。懇意にしている映画監督もいるので映画出演は全くの妄想ではないのであるが、最近のハリウッド業界と世間に対して苛立っている彼女の眼は怪しく血走っている。

 当初、女主人は主人公を間違ってやってきたセールスマンと受け止めて無下にあしらうのだが、主人公が映画の脚本家であると知ったことで,彼に書きかけのサロメの脚本の手直しを頼むつもりになる。そのためには部屋も食事ももちろん報酬も提供しようというのだ。最初は断る彼だったが、屋敷に駆け込む際にガレージにこっそり駐車していた車が借金取りに見つかって持ち去られ、ようやく観念するのだった。

 女主人の罠にはまっていくような話の展開は、ホラー映画スレスレであって、いつ女主人が実は幽霊だったという筋書きでも不思議ではないと思えてくる。まず女主人の眼は血走っているし、召使いも寡黙でありフランケンシュタインのようである。

 そこでこの映画の1つ目のモチーフとして幻想文学・ホラー小説の類型を指摘しないわけにはいかない。しばし幻想文学に登場するのは、幽霊屋敷、かつては華やかにその栄華を極めた一族が没落し、空き家あるいはその末裔がつつましく暮らす場所である。あるいは、歴史的に2つの大国や王朝・文明に挟まれた境界領域(いつの時代にも場所でも必ず存在しているものだ)には、左から右から多民族等の侵入が繰り返されてきた。そこでは両方の文化が独自にミックスされた新たなカルチャーが形成されるとともに、民話や説話などに由来する怪奇伝説が現代まで残っている。のちに、小説家がそのような伝説をリメイクして伝奇小説にしたてたりもする。例えば、ドラキュラ伝説が残るバルカン半島ハンガリーやルーマニアのあたりに住む人々は、古代ローマ時代にはダキアと呼ばれていた。カエサルのガリア戦記などの古代ローマからの視点では野蛮な部族として蔑視されていた。

 近代では、オーストリア=ハンガリー二重帝国の崩壊をきっかけにユーゴラビアが連邦として設立し、大戦後は社会主義政権となったがその国土を残した。しかし90年代以降の長い内戦状態を経てセルビア、モンテネグロ、マケドニア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、クロアチアその他の複数の民族国家に分裂したのが記憶に新しい。この経緯も、バルカン地域にさまざま民族が複雑に入り混じっている事実を如実に示している。

 幽霊屋敷のモチーフの類型を戻すと、没落した屋敷には家長はすでにいなくなっており、たいていの物語の類型では女が一人または昔からの召使いとともに暮らしている。その例は数えだすとキリがないが、思い出すままに列挙してみる。泉鏡花の「高野聖」では、主人公の僧は飛騨の山越えで蛇や蛭だらけの森の中を逃げるようにして進む道中に、一軒家に白痴の青年と動物に囲まれて住んでいる女に出会う。女の誘惑に負けずに下界に戻った僧は、あの動物たちは女が人間を化身させたのだと聞く。名匠溝口健二の映画「雨月物語」は上田秋成の同作品集の「浅茅が宿」と「蛇性の婬」を原作としているが、自宅の窯で作った陶器を市に売りに出た主人公は高貴な夫人が女中と住む家に案内されて命をとられそうになる。一難を逃れたのは偶々知り合った僧侶が身体に書いたお経のおかげだった(耳なし芳一を彷彿)。

 泉鏡花原作の寺山修司の名作「草迷宮」は青年が妖怪屋敷で怪奇現象に翻弄される美しい映画である。西瓜から手毬まで球体イメージの錯乱はまるでチームラボのプロジェクションマッピングのようだ。コンセプトは母胎回帰の通過儀礼に近い。西洋であれば、英国の貴族・政治家のウォルポールの「オトラント城奇譚」、米国ではアラン・ポーの「アッシャー家の崩壊」、著名な作品の枚挙を厭わない。トーマス・マンの「ブッデンブローク家の人々」は、怪奇小説ではないが、リューベッグの商家の四代に渡る栄枯盛衰というよりは没落の歴史であって、これも実は怪奇小説だったのかもしれない。

 やがて現代に至って、封建制度の崩壊により(経済競争による貧富は存在するのだが)、怪談のモチーフとしてお屋敷そのものは少なくなってくる。その結果、どちらかといえば畏怖の対象は家制度・お屋敷から個人・その内面へと恐怖の対象も変化する。それでも日常社会の周辺部分で世間に一定の恨み辛みを抱いた人と接すれば怖い思いをする。時には命を落としてしまうというモチーフは有効であり、その対象は女性であることが多い。

 脱線するので、ここでとめておくが、没落した側の人々が恨みや怨念を描いて怪奇小説が産まれるのではない。それらの対象を恐ろしいと恐怖を感じる体制側の人間が怪奇小説を書くのであり、もっといえば、体制側であるが没落者側の気持ちがわかる人間が小説を書くのである。であるから、そのような小説家には何かが憑依する、または憑依しているのだと社会は解釈するのであろう。それでは、怪奇に遭遇する主人公の要件は何か偶然かそれとも何かの因果かと言えば、単純に答えを示せるものではなく、読者がそのような未知との遭遇にリアリティを感じさせることができれば、小説家の勝ちであり力量なのだというのにとどめておく。


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