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人生は漫画のコマである ー高野文子「奥村さんのお茄子」ー 補遺(ベンヤミンのパサージュ論とアウラ)

 高野文子さんの作品の愛読者にはあまり関心のない話かもしれないが、その魅力の秘密を探るために、20世紀最大の哲学者の一人との評判のあるヷルター・ベンヤミンを登場させることご容赦いただきたい。

 ベルリン生まれのベンヤミンは、「パサージュ論」なる断章、膨大な書物の引用からなる都市論あるいは近代論の研究ノート(草稿)を残した。第二次世界大戦がおきて、身の危険と原稿の散逸を恐れて、その原稿をフランスの国家図書館の司書だったジョルジュ・バタイユに保管を委ねたとの曰くつきである。

 パサージュは、19世紀以前に作られたパリの商店街のことで、百貨店にとって代わられるまでは時代の先端の商業施設だった。言い換えれば、ベンヤミンが関心を持った20世紀にあっては、まだ商店街としては機能していたが、古びた・時代遅れの遺物となっていた。

 ベンヤミンはパサージュを代表とするような一昔前の商業施設の遺物(例えば、パノラマ、蝋人形館、パノラマ、鉄骨建築等々)についての考察し、文献の引用を収集したコレクションがパサージュ論なる草稿となった。

 パサージュ論は、それ自体が断章・草稿の理由もあって、ベンヤミンが言いたかったこと、どのような論考を完成させようとしていたかは明らかではなく、研究者たちにとっても魅力ながら難解な書物となっているようである。専門家ではない一般読者にあっては、そこに書かれている個々のアイテムを楽しみながら、その書物の世界でもフラヌール(その都市とは人間関係の関わりは全くなくて、観光対象として遊歩する人々)を味わうような作品ではないかと思われる。

 パサージュ論の解説を読み進めると、「19世紀とは、個人的意識が反省的な態度を取りつつ、そういうものとしてますます保持されるのに対して、集団的意識の方がますます深い眠りに落ちていくような時代(ないしは、時代が夢を見る時代)」であるというベンヤミンの言葉がしばしば目に留まる。

 ヒトラーのナチス政権にドイツの人々が狂信的な支持を行ったことは、集団の夢の顕著な例であろうし、近年であれば、人々はインターネット上で自分が望む(あるいは強く否定したい)情報を益々信じていることは集団の夢であろうと、素朴には理解できる。

 また、パサージュ論でコレクションされた19世紀パリの遺物についてのベンヤミンの書きぶりを眺めていると、単にノスタルジーへの詩情で愛玩するものをかき集めたのではなく、これらのコレクションから新たな世界を構築しようとする意志を感じることはできる。

 パサージュ論解説だけがここでの目的ではないので、このくらいを前置きとして「奥村さんのお茄子」の考察に移りたい。大胆な仮説を採用して、お姉さんはベンヤミンではないかと考えてみようと思うのだ。異次元の世界からやってきたお姉さんは20世紀の昭和の商店街に研究のフィールドワークにやってきたのだと。

 お姉さんが登場するのは日本の商店街というパサージュである。お姉さんは先輩研究者が1968年に撮影したビデオ映像の断片と奥村さんの記憶、そしてビデオで撮影されたいた人々の証言から、1968年6月6日の石浜モータースの食堂で起きていたこと(奥村さんの食事内容含む)を再現することに成功するのだった。

 フランス文学者鹿島茂先生の「『パサージュ論』熟読玩味」の説明をお借りして、説明を進めるとすれば、1968年6月6日に撮影された映像のコマの断片、関係者(石田さんを除き奥村さんとは直接的な人間関係がない)の記憶の断片、これらを奥村さんが拾い集めたのではなく、お姉さんを介して奥村さんにふりかかってくるのである。「そのふりかかりかたは、あたかも夢の中で、夢の形象がわれわれにふりかかってくるのに似ている」。

 実際のところ、奥村さんは石浜モータースで遅い昼ごはんを食べいるときに、屋外での体育の佐久間君、ドッジボールを見学している今井君、浜田先生、郵便配達員の千葉さん、ユキコさん、トラックの下田さんがいたことや彼らがそれぞれに視線の先にいたことなど知らない。お姉さんのフィールドワーク研究によって、これら記憶/歴史の断片が「解き放たれて」新たな連関の関係を築くのだった。彼らの記憶のコマをお姉さんあるいは高野文子が再構成することで本作品の最後のページの世界が完成するのだ。

 再び鹿島先生の著作からのパサージュ論を孫引きすれば「弁証法的歴史家にとって肝要なのは、世界史の風を帆に受けることである。思考することは、こうした弁証法的思想家にとって帆を張ることを意味する」とベンヤミンは書いている。難しいことは考えなくてもすなおに「奥村さんのお茄子」の魅力を感じる秘密は、実は、こういったところにも関係するのではないだろうか。その魅力に気づいた読者はもう一人前の歴史家だ。

 ベンヤミンは、複製芸術論の考察の中で、「同一の時空間上に存在する主体と客体の相互作用により相互に生じる変化、及び相互に宿るその時間的全蓄積」を「アウラ」と定義した。そして、同一の時空間上の主体と客体が相互作用により相互にアウラを更新し続ける関係を「アウラ的関係」と呼んだ。

 まさに、奥村さん、佐久間君、今井君、浜田先生、千葉さん、ユキコさん、下田さんは、1968年6月6日という同じ時間に、石浜モータースとその近辺という空間で、見る・見られるという相互作用をしており、「アウラ的関係」にあると言える。そのような知覚を「アウラ的知覚」と呼ぶようであるが、漫画の登場人物に加えて、本作品を読み終えた読者も「アウラ的知覚」を体験したのである。


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