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【覚書】ジャック・リヴェット監督『修道女』(La religieuse: Suzanne Simonin, La religieuse de Denis Diderot, 1968)

 ジャック・リヴェット論(リヴェットにおける女性の身体性について)の出版を準備中(2018年現在)であるアンヌ=ガエール・サリオ(Anne-Gaëlle Saliot)によれば、確かにリヴェットの全ての映画は演劇に関するものだが、リヴェットは、自身の映画において、しばしば悪い意味で、つまりは映画を脅迫する文脈で使われる「演劇性(テアトラリテ)」(=大げさ、貴族的)という言葉をもう一度複雑な系譜に置き直し、映画化し難いものを守ろうと、それを排除しようとする傾向に逆らおうとしている。
 ディドロの同名小説(1796)を原作とし、アンドレ・マルロー(公開当時の文科相)によって検閲をも受けた映画版『修道女』は「68年革命」の予告としてあった。その冒頭、ドンドンドンドン!というノックの音と観客の声が文字通り映画の「開幕」を告げる。そもそも、「人々がたくさん来て劇場のようだった」、「幕を降ろした」という表現がディドロの小説にはあるのだ。この女子修道院は小さな劇場であり、また小さな裁判所なのであり、そこでは、小部屋(cellule)あるいは独房(cellulaire)という閉鎖的な空間と開放的な空間とが対比され、空間の演劇性ならびに俳優の演劇性が開示される。
 さらに、本作には演劇のみならず絵画的な美学も導入されている。特に印象的なのは、腕を組みその上に頭を載せるアンナ・カリーナによって体現される「メランコリー(悲しみ、無気力、体力のなさ)」のイコノグラフィである。これは他のリヴェット作品にも見られるもので、絵画と映画の相互関係を象徴する。そういえば、ディドロは、演劇の観客は絵画の連続、即ち魔法の前にいるようだとも述べていたのだ。
 あるいは色・音の使い方、書道、そして女の生涯という主題が見いだされるのであるから、この作品は「ディドロによる、溝口の女の生涯」といってもいいかもしれない。

出典:アンヌ=ガエール・サリオ氏による講演「ジャック・リヴェットの映画における身体の演劇性」(学習院大学、2018年12月13日)を筆者の関心に基づき再構成した。


〈おまけ〉あるいは中条省平いわく、「この映画でリヴェットは独自の〈空間〉造形を試みており、そのことに触れないわけにはゆかない。それはリヴェット映画をもっとも鮮やかに特徴づけている逆説でもあるのだが、閉じられた空間の迷宮的無限性ということである。(中略)『修道女』はリヴェットの作品のなかでももっともダイナミックなトラヴェリングが使われている作品だが、その特質はゆるやかな回転運動にあって、そのため舞台空間そのものは閉じられていながら、映画空間は迷宮的に重層化されており、けっして閉塞的に閉じられてはいない。これがリヴェットの魔法のひとつなのである」(中条 51)。

出典:中条省平『映画作家論—リヴェットからホークスまで』、平凡社、1994年。

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