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【映画評】クリス・バトラー監督『ミッシング・リンク 英国紳士と秘密の相棒』(Missing Link, 2020)

 スタジオライカ15周年記念作品だそうで、今回も素晴らしい人形劇(ストップモーション)となっている。
 ヴィクトリア朝時代のイギリス、探検家の憧れである貴族クラブ入りを目指すライオネル・フロスト卿はアメリカへと渡り、遂にビッグフットと出会う。英語を解する彼にリンクという名を与え友人となったフロスト卿は、かつての恋人、アデリーナ・フォートナイトを一行に加え、今度はリンクの仲間がいるらしきヒマラヤ、シャングリラへと向かう。しかし、フロスト卿の加入を快く思わない貴族クラブのボス、ダンスビー卿が一行の行手を阻もうとして…。
 19世紀に世界各地でフロスト卿が「発見」をして回る、という構成なのだが、彼が「発見」、「啓蒙」、「分類」しようとするたびに、ヒロインのアデリーナから、そのような態度は「傲慢」だ、それはあなたの一方的なものの見方に過ぎないと、突っ込みが入る。つまりこれは、より聡明で開明的な女性が、上記のような男の近代的探検譚を即座に相対化する(身分社会に釘を刺す)物語なのだ。そのような過程で、リンクはある別の名前を自ら名乗ることになるだろう。
 ビッグフットの足跡とフロスト卿の足跡が重ねられるところにこの映画は始まる。終盤、そこへアデリーナの足跡も加わる。「それはかつてあった」という指標記号(インデックス)の典型としての足跡。皆同じ人形、いやモノに過ぎないという認識のレベルで、スタジオ・ライカ作品はここで、あらゆる存在が平等に戯れる理想郷を提示している。わずかに、その平等を阻害し「支配」を目指すものが「落下」によって、その世界から排除される。
 

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