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息子、カザフスタンへ行く。

「俺、春休みカザフスタンに行ってくる」
ん?カザフ…?それどこにあるんだっけ。さらりと息子が口にした場所は、ただ遠い未知の国という印象だった。

「平和のために東大生ができること」という集中講義の一環でカザフスタンに国際研修に行く企画があり、息子はそれに参加したいと言う。カザフスタンは旧ソ連で中央アジアにあり、ロシアの南に位置する国土面積の大きな国。首都はアスタナ、比較的発展しており治安は概ね安定している、らしい。
息子の行き先は、首都アスタナよりうんと南側に離れたアルマティという大きな都市。3月の初めから10日間滞在し、観光や企業訪問、カザフ国立大学の学生との交流などが組み込まれている。

「はじめての海外旅行でカザフスタンて…ハードル高くない?笑」
「まぁ、自分じゃなかなか行けない国だろうから、いいや。行ってみたい。」

研修に参加する学生は全部で18人。引率の先生もいる。一人旅ではないし、安心だ。
これから起こるトラブルも知らず、呑気に遠い異国に思いを馳せる私たちであった。

異国で地震

3月1日、成田から日本を出発。同日ソウルの仁川空港を経由し都市アルマティに到着。
旅行中はカザフ国立大学の学生寮に滞在することになっている。最初の2、3日は生活基盤を確保するため、換金やSIMカード購入、近辺エリア探索、観光やエクスカーションが主な行程だった。

3月4日。この日から大学でカザフ語講座や学生とのディスカッションの研修が本格的にスタート。のはずだった。
夕刻に差し掛かろうとする時、息子から突然のLINE通知。
「地震があった」
「でも大丈夫だから」

マジか。着いて早々に?

カザフとの時差は日本より遅れて4時間、じゃ起こったのは正午ごろ?
検索しても何も報道されていない。
ということは、それほど規模は大きくないのかな。それにしても息子から送られてきた画像はなかなかのパニックぶり。

体感としては震度3〜4だったらしいが、発生後、皆一斉に屋外に避難したという。
「え、大げさじゃね?」
最初息子は思ったらしい。しかし地震大国日本に住む私たちにとって、地震は割と身近なもので慣れてはいるが、それは日本の建物が耐震性に優れているおかげであって、その安全性のもとに成り立っている、ということを忘れてはならない。
カザフスタンでも地震は起こる。だが日本ほど地震対策が追いついていないため、建物が倒壊する危険がある。だから人は必ず屋外へ避難するのだという。

その日はそのまま大学の体育館へ避難を強いられる。遠い異国で急な災害に見舞われ、寒々とした体育館の中で何もできずに時間を過ごす、その心細さは想像に難くない。
あとから知ったことには、地震はまあまあの規模だったようだ。

そしてその日の夜、無事学生寮に戻れたと報告があった。

やれやれ。
普段も息子とは離れて暮らしてはいるが、遠い外国だと余計に気を揉むな。
余震の心配も無いようだった。このまま何事もなく無事に過ごせますように。

40度の発熱

ところが、翌日の5日、息子とのLINEのやりとりで。

「昨夜はよく眠れた?
今日は予定通り過ごしてるの?」

「快眠だったけど、今日は体調崩したみたいで、途中で早退した」
「でも心配しなくて大丈夫」

息子は最後に必ず「心配しないで」と付け加える。けれど言葉通り受け止めた自分を後に呪うことになる。

「そっちは夜11時ぐらいだよね」
心細かったのか、LINE通話があった。夜、熱が少し上がったという。
「こっちは大気が悪い」
「明日病院に行く予定」
そうか、慣れない土地で疲れが出たのかな。ちゃんと病院で診てもらえると安心だね。
はじめての海外旅行で緊張もするよね。
15分くらい話をして通話を切った。

3月6日は、私の父の1周忌だった。
その日は仕事を休み、実家の自宅で親族が数人集まり、菩提寺からお坊さんに法要に来ていただいた。
お経をあげてもらい、皆でお弁当を食べるといった簡素な法事だったが、その後は親族を自宅へ送ったり、美容室へ行ったりで慌ただしく過ごした。
この日、息子からの連絡はなかった。
「病院はどうだった?体調はどうかな?」
夜メッセージを送って床についた。

7日の翌朝、夜中に息子から送られていた返信に気付く。
「病院には結局行ってない」
「熱が下がらない…」
背筋がゾッとした。

病院に行ってないって、なんで?

同行した日本人教師と現地の先生が話し合った結果、
 ここ最近日本人を病院に連れて行ったが、同じ処方箋しか書いてくれない。
 不要なレントゲン検査などをして時間とお金を取られるだけ。
 高熱の中、病院で待たされるのは負担なので、日本の風邪薬を飲んで安静にしておいた方が良さそう。
との理由で、病院に連れて行ってもらえないことがわかった。

「いま40度くらい」
「何とかパブロンで抑えてる」
40度。ただの風邪じゃない。インフル?コロナ?それとも…  避難中の体育館で感染したのだろうか?いやいや、この状態で、病院にも連れて行ってもらえずに、高熱のなか三日間放置されているの?苦しいだろうに。何もしてあげられない。何なのその病院。他の病院には行けないの。
仕事中なすすべもなく、悶々と時間が経つ。

「他に2人発熱したらしい」
え、そんな状況。何かのウィルスに集団感染したのだろうか?大学からは何の連絡もない。LINEのやりとりしかできないのがもどかしい。
情報があまりにも乏しい。
もう連れて帰りたい!


「いま病院に向かってる」
夕方再び息子からメッセージが入った。しばらくして、病室らしき画像。
点滴を打ってもらっているらしい。

ああ、良かった。助かった。力が抜ける。
「誰が連れて行ってくれたの?」
「話せば長くなるけど…知り合いの知り合いがお医者に繋いでくれた」

感謝の気持ちで胸が熱くなった。
でも一体誰が?

そのとき、埼玉にいる兄から電話が鳴った。その電話で驚きの事実を知ることになる。

奇跡のような繋がり

遠い異国のカザフスタンに知り合いやツテなどない。
日本大使館だって、それがある首都から息子のいるアルマティまで約800km離れている。
遠く離れた日本からは、何が起ころうともなす術がない。
そんな状況だった。

けれど、カザフスタンにマザーテレサが現われて、高熱で苦しんでいる息子たちを救ってくれた。

そして私たちは繋がっていた。
細い細い、強い糸で。

兄と電話で話したあと、奥方(義姉)に代わって事情を聞いた。
仔細はこうだ。

義姉にはKさんという東京在住の親友がいる。Kさんは、去年地方から東京に進学した息子と面識があり、アルバイトを紹介してくれたりと懇意にしてくださる方だった。
この近日中、行きつけの喫茶店でKさんは偶然ある人物との再会を果たす。
この方はSさんというビジネスマン。お2人は地元の喫茶店の常連つながりだそう。
しかも、Sさんはカザフ人の方と国際結婚をしており、普段はカザフスタン在住だという。たまたま、この時期に仕事で東京に帰ってきていて、地元で喫茶店の常連客同士がバッタリ出くわした。そこで現地の事態を把握したSさんが動いてくださり、奥様が息子たちを助けてくださったのだ。

すごい、こんなことが。
何も見えなかった状況がここで一気に明らかになった。
発症者が4人、うち1人が重症化していること、Sさんの奥様が運転して4人を病院に連れて行ってくれたこと、現地はインフルエンザが蔓延していたこと、そもそもカザフスタンは風土病が多く病気見本のような国で、その割に医療があまり追いついていないことなどがわかった。
目の前の霧がすっかり晴れていった。

広大なカザフスタンの中、Sさんの奥様がアルマティに住んでいらしたことも幸運の一つだった。日本から遠く離れたカザフスタンまで、まさか身内からこんな奇跡のような縁の糸がつながっていたとは。
それにしても、息子の運の強さよ。

その後すぐ、だいぶ熱が下がり楽になったものの、ひどい咳が残る息子に寮からホテルへ移るよう手配された。
「付き添いもなく一人になって大丈夫なの?」不安があったが、
送られた画像を見て心の中で「前言撤回」とつぶやいた。

before
after

3月10日の夜、息子は咳を患ったまま一行と共に帰国の途につき、翌朝11日成田の検疫をすり抜けて入国、無事自宅へ帰ることができた。

結局、息子はカザフスタンまで何をしに行ったのか。ツッコミどころは多いだろうが、彼はこの数奇な体験と、自分を救ってくれた、人と人が繋ぐ縁の力を一生忘れないに違いない。

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