年間第21主日ミサ:シェガレ神父の説教

C 年間 21主日 ルカ13,22−30 渋川2022 狭き門

今日の福音に「狭い戸口から入るように努めなさい」という有名なイエスの言葉が出ています。日本人も「狭き門」という言葉は馴染みがあり、「頑張らなければ通れない」という意味で捉えるが、福音の理解はちょっと違うでしょう。 
 日本人は幼稚園の時から、入学や就職など多くの狭き門をくぐり抜けなければならない国で、一生余裕が少なく、苦労が多いです。日本だけではありません。グローバル化している世の中に、狭き門がどんどん増えていき、それを突破できる人は世界のエリートとなり、政治・経済のトップを占めることになるが、通り抜けられない人は落ちこぼれとなり、社会の格差が広がります。このプロセスは自然淘汰とか自由競争の原理とかと正当化され、資本主義社会の常識です。
 イエスが語っている天国の門は同じように頑張らなければ通れないものだと言えるでしょうか。天国の門は優等生や真面目で、しっかりした人だけが入れるでしょうか。これは違うでしょう。すべての人の救いを望む神の思いではなく、むしろイエスがいつも批判している律法学者やファリサイ派の人々の思いです。彼らは律法の掟の全てを守っているから他の人より成績が良いと威張っていて、自分たちだけが天国に入る資格があると思っていました。しかし彼らはすべての掟を守ると言いながら、一番重要である愛の掟を守っていませんでした。それだけではない。彼らは一般の人が通れないように天の門を狭くしているとイエスは福音書の他の箇所で言っています。「律法学者たちとファリアイ派の人々よ、あなたたち偽善者は不幸だ。人々の前で天の国の門を閉ざすからだ。自分が入らないばかりか、入ろうとする人をも入らせない」(マタイ23,13)と非難しています。律法学者たちは、モーセを通して与えられ、本来命に至る道であるはずの律法を細かい掟に分けて増やし、背負いきれない重荷にしていたため、人々は天の国に入らないように狭き門を作っていたわけです。イエスは救いを求めるこうした律法学者に対してあなたがたを知らないと厳しくとがめ、代わりに北と南から来た人々が神の国の宴会の席に着くと答えます。
 現代は律法主義と言わないが、代わって、思いやりのない管理主義に代わり、立場の弱い人はルールや手続きを守れず、狭き門が増えています。特に貧しい国では子供が学びたいのに学校に入れず、高齢者は役所の手続きが理解で着ないため拒否されて、障がい者は動けず病院に通えないとか、人々の暮らしは困難に満ちています。日本をはじめ先進国でも昔より生活が楽になったが、社会の仕組みは多くの家族にとって狭き門となるのではないでしょうか。 
 もしかしたら教会の中にも見えない狭き門があり、門をくぐって入りたいと思っても入れない人が多い。彼らにとっては教会の敷居が高くて、入りづらいようです。彼らにとって教会は余裕を持ち真面目な人だけのためにあると思ったりします。実際そうではないが、なぜか私たちはそういうイメージを与えていて、遠慮する人がいます。
 神様は天国の門が通りにくくなることを望んでおられません。それなら今日の福音にある「狭き門に入るように努めなさい」というイエスの言葉の意味はなんでしょうか。頑張らなければ通れないと理解すべきでしょうか。昔はそうした解釈があり、狭き門は禁欲主義の掟を意味していました。しかし現代ではもう一つの解釈があります。狭き門が通れるには頑張るよりは、自分を低くすることが必要。高ぶる人、他の人よりも自分が清いと思う人は門を通れません。こういうふうに理解すれば天の国の門は日本の茶室の「にじり口」に似ています。茶室に入るには身分の高い人が頭を下げて、膝の上が動いてにじらねばなりません。ひとたび茶室に入れば、世間における立場を離れて、皆が平等になります。教会の門は茶室のにじり口のように、自分を低くして入らなければ、教会に物理的に入っても、神が用意した愛の交わりに入れません。皆は教会の建物に入った途端に上下関係がなくなり、みなが平等になって、兄弟のように受け入れあい、共に神の国に近づいていけまたら幸いです。

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