見出し画像

「仁義なき戦い50年」 飯干晃一の原作を読む

本稿は『情況』2022年春号「実話情況」に掲載されたものです。

1 ウクライナの恋人が語ったこと

 2月の下旬、「ウクライナの恋人たち」と題する一本の短い動画が話題になった。迷彩服を着た兵士とその恋人とみられる女性が別れを惜しむ姿を映したものだ。
 この男女は何も語っていない。何が起きているのか、なぜ、泣いているのか、何も説明していない。しかし、この動画がツイッターに投稿された日が、ちょうどロシア軍がウクライナに侵攻した2月24日だったことから、この男女のドラマは「今、ウクライナで起きていること」として拡散され、瞬く間に世界中に広まった。ウクライナ女性の悲しみをたたえた顔を見て、胸を痛めた人は多かっただろう。また、ロシアへの怒りを駆り立てられた人も少なくなかったはずだ。
 ところが、その二日後、この動画が2017年に公開されたドキュメンタリー映画のワンシーンであることが明らかになる。
 そして、今度は「これが西側のやり方だ」「西側の情報は信用するな」といったツイートが溢れた。ロシアへの怒りを煽った動画が一転して西側を攻撃する材料となったのだ。
 動画の中身は何も変わっていない。変わったのは動画を見る人の目。同じ動画でも、「戦争の悲劇だ」と言われて見るとそう見えるし、「プロパガンダだ」と言われて見るとそう見える。どういう背景情報を持っているかで、ものの見え方は変わる。
 このことは、予断、偏見、思い込み、情報操作などと否定的に語られることが多いが、『仁義なき戦い』の魅力の秘密はここにある。

2 広島やくざ戦争の内側からの記録

 映画『仁義なき戦い』の原作、飯干晃一の『広島やくざ流血20年の記録 仁義なき戦い』(死闘篇、決戦篇)は今、角川文庫で読むことができるが、初出は週刊誌の連載である。1972年5月19日、「週刊サンケイ」に第一回目が掲載されるやいなや、たちまち話題となり、発売日が待ちきれない読者によって、「印刷所でゲラの奪い合いが起きた」という逸話も残っている。連載は46回に渡った。
 この連載に人々が夢中になったのは、美能幸三が獄中で書いた手記が原文のまま盛り込まれていたからだ。
 美能幸三は1926年生まれの呉市のやくざ。早い話が、菅原文太が演じた広能昌三のモデルである。
 飯干のこの連載は、戦後の混乱期に広島で起きた「広島やくざ戦争」を描いたものだが、飯干はこの抗争の当事者の一人である美能幸三の手記をもとにこの戦争を再現したのだ。
 美能の手記は広島やくざ戦争の内側からの記録である。警察もマスコミも知らなかった戦争の内幕、数々の殺人事件の真相が記されている。また、やくざと関わりの深い政治家、芸能人、プロ野球選手が実名で登場する。話題になって当然である。
 美能幸三がこの手記の公表に踏み切ったのは、「誤解を解くためだった」という。美能は自分なりに筋を通してきた。が、かつての親分に弓を引いたのも事実。そのため、美能をよく思わないものたちが、美能を貶めるような噂を流布していた。美能はそんな状況に我慢がならなかった。それで、飯干に手記を託したのである。
 飯干はこう書いている。
「四百字詰の原稿用紙で七百枚。獄中の制約からこれを書きあげるのに、美能氏は五年かかったという。」
「わたしはむさぼるように手記を読んだ。そこには美能幸三という一人のヤクザの怒り、憤り、意地、あるいは悲しみというものが、冷静で、客観的な記録の叙述をまじえながら克明に記されていた。」

3 やくざのルーツはサムライ

 飯干の『仁義なき戦い』は、美能の手記、飯干の解説、美能の手記、飯干の論考という形で進んでいくのだが、美能のパートを読んでいると懐かしさが込み上げてくる。映画で見た名シーンの原型がそこにあるからだ。会話も生々しく再現されていて、菅原文太、松方弘樹、成田三樹夫、金子信雄らの声が聞こえてくる。
 飯干のパートには、美能の語る事件の背景や、事件が起きるまでの経緯などが書かれている。飯干は美能が関わっていない事件、美能がその場にいなかった事件についても見てきたように書いている。
 飯干晃一は1927年生まれ。作家になる前は読売新聞の社会部副編集長だった。
 飯干は「わたしはあの疾風怒涛の時代、社会部記者であった。しゃにむに歩き回っていた」と書いているが、その場に自分もいたかのように事件を再現する新聞記者の取材力と筆力には驚くばかりである。
 が、飯干のパートの魅力はそれだけではない。飯干はこの本の中で、独自の「やくざ論」を展開している。
 日本のやくざのルーツは歌舞伎にも登場する江戸時代の口入れ屋、幡随院長兵衛というのが定説となっている。口入れ屋とは今の人材派遣会社である。人口百万人の巨大都市・江戸は多くの労働力を必要としており、口入れ屋が繁盛していたのだが、当時の口入れ屋は周旋手数料をとるだけではなく、集めた人足たちを相手に賭場を開き、テラ銭を取っていた。これが、江戸時代の口入れ屋がやくざのルーツとされる所以だが、飯干の見方は違った。
「日本のヤクザの始祖は幡随院長兵衛だといわれるが、バクチの伝統と歴史は、当然のことだが、もっと古い。」
「戦国時代の武将も兵士もバクチ好きであった。」
「陣中小閑、ことごとくがバクチで、具足や刀や槍まで賭けた。」
「武士たちのこのバクチ好きが、戦国時代の終わりまで尾を引き、浪人がバクチ打ちに転じてヤクザの発祥となったのである。」
「ヤクザは戦国時代の武士、足軽たちの落とし子であった。」
 飯干は、戦後の広島に割拠するやくざ組織の親分たちに戦国武将の面影を見たのだ。
 特に飯干が注目したのは、金子信雄が演じた「山守の親分」のモデル、山村組の山村辰雄組⻑である。飯干はこの親分を中世的な人物の典型とし、権謀術策に秀でた梟雄とする。土建屋のオヤジから身を起こし、広島の裏社会に一大王国を築いた山村組⻑を、一介の油売りから美濃一国の国主となった斎藤道三になぞらえたのだ。
 そして飯干は、戦後の広島で繰り広げられるやくざ同士の戦争を、焦土のうえに出現した戦国時代の物語として語っていく。バクチとキャバレー遊びと戦争に明け暮れるやくざたちが、飯干の目には戦国時代のサムライに見えたのだ。死をも懲役をも恐れず、命をむき出しにして生きる男たちに、乱世を生きた男たちの姿を見たのだ。

4 現代に蘇った戦国時代の物語

 東映は映画『仁義なき戦い』を、現代やくざの姿をリアルに描いた「実録やくざ映画」として企画した。が、飯干はこの作品を現代の物語ではなく、現代に蘇った戦国時代の物語として書いていた。
 監督の深作欣二、脚本を書いた笠原和夫、そして、菅原文太をはじめとする役者たちは、飯干の原作に引っ張られ、飯干が見たようにこの戦争を見た。だから、この映画は「やくざ映画」以上のものになったのだ。
 戦国時代の物語が今も次々と生み出されているのは、この時代に汲んでも汲み尽くせぬ魅力があるからだろう。
 戦国時代は内戦の時代である。多くの血が流された時代である。にもかかわらず、私たちがこの時代に惹かれるのは、織田信長のような英雄がいて、斎藤道三のような梟雄がいて、武田信玄のような名将がいて、豊臣秀吉のような成り上がり者がいて、栄光があり、挫折があり、裏切りがあり、大どんでん返しがあるからだろう。
 映画『仁義なき戦い』の魅力も同じである。小林旭の演じる武田明のような英雄がいて、梅宮辰夫の演じる岩井信一のような豪傑がいて、山守の親分の栄光があり、松方弘樹の演じる坂井鉄也の反乱があり、田中邦衛の演じる槙原政吉の裏切りがあり、渡瀬恒彦の演じる有田俊雄の挫折がある。政治地図は日々書き換わり、昨日の友は敵となる。子分たちはそんな情勢の変化に右往左往しながらも、虎視眈々とのし上がるチャンスを狙う。まさに戦国時代の物語である。

5 時間が経つにつれて価値を増す

 東映のプロデューサー、日下部五朗は「時間が経つにつれてその価値を増してきているのが『仁義なき戦い』である」(『健さんと文太』、光文社新書)としているが、この作品が、時間が経つにつれて価値を増すのは、この作品の本質が、現代からは遠いところにある歴史物語だからだ。
 1973年に封切りされた時は、まだ戦後の名残がそこかしこに見られた。当時、この作品がそこそこのヒットにしかならなかったのはそれが理由だろう。戦後の記憶が生々しく、歴史物語とは思えなかったのだ。
 が、時間は流れ、戦後は遠いものとなった。焼け跡の闇市を闊歩した荒くれ者たちは姿を消した。それとともに広島やくざ戦争は歴史になった。だから、われわれは今、『仁義なき戦い』を歴史物語として楽しむことができるのである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?