ブルームーン

明るく輝く黄金色のまん丸。手元に落ちるライトの光を返した瞳に、ぼくは読んでいた雑誌を取り落としてしまう。
「ねえ、大丈夫」
 膝の上にするりと滑り込んできた彼女がくるりとした目で訊いてくる。なにをと訊き返さなかったのはどこまで見透かされたのかを知るのが怖かったからだったと思う。
「もが」
 返事の代わりにぼくは落ちた雑誌を拾い上げ、ぼくに挟まれた彼女が呻く。じたばたと振られた細腕が背を叩く。それから両頬を手で潰されて引き起こされる。目の端に映った時計は十二時を回り、一時を回り、彼女の今にもぐずり出しそうな顔に少しばかりの理解を得ることができた。
「これ食べたい」
 間近の彼女が言い、顔をずらして彼女が指差す逆さまのあんかけスパゲッティを見る。
「じゃあ今度食べに、いや、一緒に作ろうか」
 眼前の瞳がすうと嬉しげに細められ、首肯が返される。それとねと逆向きのページを捲りはじめたところでぼくは雑誌を閉じて、酷く捻じれた格好の彼女を引き寄せた。
「そろそろ寝よっか」
 ぼくの言葉に彼女の表情が面白くないと言いたげにくしゃりとなる。
 じゃあどうするの、なんて問いかけには答えず、彼女はぼくの腕を取ってベランダの前まで大股で歩いていく。勿体ぶった大仰な動作はマジシャンのそれを思い起こさせる。
 ティーテーブルの上で冷えてしまったココアをわざわざぼくに手渡し、彼女は閉じていたカーテンを取り払う。
 目を刺したのは鋭い明かり。脳味噌の内から溢れるような刺激が抜けていって、そこに見えたのは真ん丸の月だった。今にも落ちてしまいそうなくらいに大きく青い月。
 からからと戸を開けた彼女に連れられてぼくはベランダへと出て、涼やかな空気に身体を冷やす。すっかり秋めいた夜の冷気にぼくはつい現実感を取り落としてしまう。繋いだ彼女の手の熱を通してぼくはこの世界を見ている。そんな感覚に陥る。
 ベランダの柵に身体を預ける彼女の髪が風に攫われて靡いている。それが気ままな粒子のように煌めく。また見惚れていたことに気付いて悟られない裡にと彼女の隣に並ぶ。
 雲のない空に月は夜の広くを覆い、星々の光を隠して煌々と光っている。
「奇麗でしょ」
 拾ってきた玉石を自慢する子供のように彼女が言う。伸ばされた彼女の手が月に影を作り、指先の柔らかい曲線がクレーターのひとつひとつを過ぎていく。
「うん、本当に」
 ぼくは彼女の目にそう返し、ココアの入ったマグカップに口をつける。まばらな甘さが冷たさと共に広がり、溶け残ったココアの塊を舌の先に持て余す。
 はらりと降りた彼女の手は柵に掛かり、そこを軸にして実に簡単に彼女の身体を跳ね上げた。奇麗な弧を描いて彼女は僕の眼前に躍り出る。寝巻は風に揺れ、なにも履いていないその足指がベランダの細い柵を掴む。表情は無邪気で、月明かりに陰となっている。
 あり得ないほど巨大な月を背負った彼女はじいっとぼくを見る。その視線に応えるためにぼくはふっと口角を緩め、手を差し出す。彼女はぼくの手を取り、ぼくの内へ飛び込んでくる。それをしっかりと抱き留める。
 彼女の肩越しに見た月には彼女の影が焼き付き、その影は逆さまに墜ちつづけている。
 華奢な背中に回したぼくの手の平には柔らかな人肌を突き飛ばした感触が残されている。
 空を埋める月と影へ苦笑いだけを返し、既に寝息を立てはじめた彼女を抱え直す。その手足に付いた柵の錆を払い落としながら部屋へと踵を返す。ベランダの戸を閉める直前、ずっと下の方からどさりと嫌な重みのある音が聞こえた気がした。
「あんかけスパのレシピ調べとかないとなあ」
 穏やかに寝息を立てる彼女を起こさぬよう、小さな声でそう呟く。
 後ろ手に引いたカーテンの奥で月が妖しく光りつづけている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?