バースディ

 その日は奇しくも私の十六度目の誕生日だった。
 いや、そんな日だからなのだろうか。
 大仰なパーティの後片付けも済み、稚拙な飾りつけが山盛りになったテーブル。その端にワイングラスを置いた親族がたったひとりで捲し立てるように話す声が聞こえてきた。
「ダイアンも知らぬ間に随分と大きくなったわね」
 ほとんど話したこともない伯母の枯れかけた声はよく通り、飲み物を取ろうと階段を降りていた私の鼓膜をきりきりと引っ掻く。咄嗟に私はその場で屈んだ。幸運にも大人達は階段の軋みには気付かず、手近なつまみとシャンパンの泡だけに集中しているようだった。
 私は伯母が苦手だった。伯母は異常なまでに規則を重んじる。その種の人間の例に漏れず、周囲にもそれを強要する。故に彼女を知る子供は皆、伯母を嫌っている。
 監視カメラのように目をぎょろつかせ、ひとたび獲物を見つければ下膨れの顔を真っ赤にしながら巨躯を揺らして怒鳴りつける。趣味だというオペラで培った声は、ひとつ向こうの通りからでも判別の付くサイレンのよう。
 やがて伯母は規則を探しはじめるようになった。
 掠れてほとんど白くなった注意書きを睨みつけては道路の向こうの自転車をけたたましく呼び止め、書店で売れ残っていたであろうビジネスマナーの本を持ち出してはお辞儀の仕方がどうだとかと言いはじめた。
 すぐ彼女の存在は学校で怪談や都市伝説なんかと並んで語られることになり、伯母の出没マップが出回るようになった。
 けれども、それだけならば稀にいる厄介な人間であって、私が伯母を毛嫌いする理由にはまだ弱い。
 彼女のことを正確に語るのならば、こう表すべきだろう。伯母は規則のみを重んじる、と。
 規則というものの根幹は曖昧だ。まず善悪という価値観があり、それを隔てる為に規則や法がある。しかし善悪というのはあらゆる要因で変化する。時代、場所、貧富、派閥、宗教、国籍、言葉、エトセトラエトセトラ。果てには規則の善悪を判断するための規則まで存在する。
 だが、先人達が散々に頭を悩ませ戦ったであろうそれにはわずかばかりの興味も向けず、簡潔化された規則の部分にしか伯母は目を走らせようとしない。あたかもその規則ひとつひとつが自然発生でもしているかのように。
 さらに彼女について付け加えておくとすれば、伯母は決して規律に則った聖人やら仙人の類でもない。
 決めつけや嘘で陥れようとした人間は数知れず、それどころか時代を幾らか遡ったような極度のレイシストであって、悪徳や俗物なんかの接頭語が付きそうなほどだ。そんな伯母がどうにかこの街に居られるのは、人種差別をしてはいけないという定番の規則があるお陰でしかない。
 そして叔母はそれらに対して無条件に平伏し、己がその執行者であるかのように振る舞っている。実際はどこまでも屈従者でしかないにも拘らず。
 五分はずっと、キッチンの方から映画の悪役みたいな笑い声が聞こえてくる。それはきっと「パーティの後片付けが終わったら早く帰りましょう」という規則を母が書き忘れたから。
「ねえ、まだあのロボットはいるのかい」
 苛立ちの混ざった伯母の低い声だけが私の耳に届く。それから、ぼそぼそとした母の声。そちらは小さく聞き取れない。
「いい加減にスクラップにした方がいいよ」
 ぞわりと鳥肌が立った。眼窩の内側が縮こまるような痛みに、私は身体を深く折った。脳裏にいつか見た悪魔の太々しくおぞましい姿が過ぎる。伯母の声は何度も反響する中で野太くひび割れていく。
 規則を破れない伯母はある日、ついに永劫の標的を見つけた。
 生まれたばかりで法の整備や倫理の手がついていないヒューマノイド。その議論には労働力としての酷使と人間達の安寧があり、彼らの権利に安直に首肯できないという事情も含まれている。
 古臭いSFで書き潰されたような安直な迫害に伯母は東奔西走し、遂にヒューマニズムなんとかという名前のカルトじみた連中を街に招き、数週間も大通りが占拠される事態にまで発展した。それはデモを禁ずるという旨の取り決めが貼り出されるまで続くことになった。翌週、意気揚々とやってきた彼らを伯母自らが追い払ったのは、教訓として語り継ぐか笑い話とするべきか、隣人達は未だに決めかねているみたいだ。
 ちかちかと繰り返す視界の明滅をどうにか追い払い、手すりに縋るように身体を起こした私は音を立てぬように階段を引き返していく。背後では伯母の声が荒々しくなっていき、すぐに怒号に変化する。
「あんたらがやらないなら、あたしが壊して捨ててやる」
 伯母の叫び声にグラスの割れる音。アルコールによって単純化された伯母の脳には最早、自分のルールしか残されていない。平凡でしかなかった私には、咄嗟に伯母を止める為の適切な規則を思い出すことは叶わず、両親も極めて平凡だった。
「あ、ディア、おかえり。飲み物はどうしたの」
 自然に綻ぶ彼女の顔にどんな説明をしたらいいのかといくらか言い淀む。落ち着いてと微笑む親友の表情は伯母より余程人間らしい慈しみが滲んでいる。階段特有の軋みがひとつひとつ近付いてくる。
「とにかく急いで逃げないと」
 彼女の手をぐっと握る。どんな人間よりもちゃんと温かい。彼女の手がわずかに握り返してくる。それを感じて、頭がすうとクリアになる。
「スティ、逃げようか」
 焦りだったものは咄嗟の覚悟に姿を変え、はっきり私の口から吐き出される。
 鞄を引っくり返し、護身用の催涙スプレーを拾い上げる。私は視界の端でぎょっとする彼女の顔を見る。しかし、床板を踏みつけるように近付いてくる足音に事態を察して、彼女が左手を握る力が強くなる。それが映画や小説の模倣だと私には思えなかった。
 蹴破るように開かれた扉の奥の贅肉の折り重なったなにかに催涙スプレーを噴き掛ける。わずかに目を焼く感覚がいくらか遅れて届く。
 廊下を駆け抜ける後方から空気を裂くような絶叫。そして巨体が倒れ、のたうつ音。私はスティの手を離さないことだけを意識しながら階段の手すりに飛びつく。接合部が大きく軋む感触がはっきりと伝わってくる。後ろから見当違いの方向に向けた罵倒が聞こえる。
 階段は三段飛ばしで降りた。踏み板が聞いたことのないほどの音を上げる。
 激突するように開けたドアの先には夜の冷気。その純粋な宵闇の気配がほんの一瞬、私を躊躇わせる。
「ねえ、ディア……」
 不安げな親友の声と共に、強く握られた手の脈動が強くなるのを感じる。
 私は振り返って長い間暮らした家の姿を見た。そして無造作に去来する記憶達を振り払う。さて、と私はスティに向き直る。
「ずうっと遠くへ行こう。この街のだれもが追ってこれないような遠くへさ」
 そう宣言だけした私はスティの返事を待つこともなく、目蓋を下ろし、短く強く息を吐く。催涙スプレーの効果が切れたのか、どたどたと家の中が騒がしい。
 手の甲にスティの爪が食い込むのを感じた私は、思い切って駆けだす。ふたり分の足音は静かな街に綺麗に響いていく。横断した通りに人はひとりとおらず、夜警用のドローン特有の高周波な音も聞こえてはこない。どうやら他のどこかに出払っているらしい。だれにも会うことはなく、すぐにゲートが見えてきた。形だけのゲートは無人で、シャッターもいつも通りに開いたままだった。
 どくりどくりと跳ねる心臓を無視し、いってきますと星の見えない空に呟く。それに釣られたスティも乱れのない息でそう唱える。
 鉛色の闇の中に聞こえるのはふたりの足音、そしてひとつの荒い息遣い。

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