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家事が嫌いなんじゃなくて、やるしかない立場が苦痛なのかも



家事がきらいだ。



とくに、「掃除」や「片づけ」が苦手。
服なんか、いつもそのへんに散らばりまくっている。

「掃除」や「片づけ」は、自分の中でルーティン化できていないせいで、すごく頭を悩ませながらしなければならない。

それに、片付けてもすぐに子どもたちに散らかされるとおもうと、やる気が失せる。
「なぜ私ばっかり片付けてるんだ」などと、悶々としてくる。




そんな私だが、いわゆる「ていねいな暮らし」系の本や動画は好きだ。

すっきり片付いたおうちで暮らすようすを覗き見ると、なんだかこっちまでその綺麗な空気を吸わせてもらっているような気分がしてくる。

好きなものだけに囲まれて、のびのびごはんを作ったり、静々と箒で床を掃いたりして暮らすひとたちを見ていると、心が安らぐ。



じゃあなんで私は、「家事がきらい」なのに「家事を楽しむ」ひとたちの本や動画を見ているんだろう。


まず思いついたのは、「羨ましいから」。
実際、「いいなあ~」「わたしもこんな生活してみたいわあ」とよく思う。
でも、「どうせこんなの私にはできないし」という、気持ちもある。


じゃあ、現実逃避のために、私は「ていねいな暮らし」のようすを見ているのだろうか。

それだけではない気がする。
わたしは、純粋に「ていねいな暮らし」を楽しませてもらっている。


「家事がきらいな私」と、「家事の本や動画を楽しむ私」。
この二つの気持ちはどちらも本当。
では私は、どうして「家事」が嫌になっちゃうんだろう。




こんな漠然とした思いを持っていたとき、とある本に、「なるほど!」と思える文を見つけた。
チョン・アウン著「主婦である私がマルクスの『資本論』を読んだら」という本である。


この本は、韓国の主婦である著者が、『資本論』をはじめ、15冊の読書をもとに、主婦・女性の家事労働と資本主義について考えをまとめたものだ。

著者が本から得た気づきが、痛快な言い回しで書いてあって、読んでいておもしろい。
(実は、まだ読み途中なのだが、印象的な文章だったので、忘れないためにも先にこの記事を書くことにした。)


「家事」について、印象的だった部分はこれだ。

女性が家事と育児を大変な、つらいことととらえるのは、それが強制的に割り当てられるからではないだろうか。
子育てと家事は、その行為だけをとって見れば大変な価値がある。(中略)問題は、これらが「義務」として強制的に投下されることにある。
犠牲の種類と分量が決まっていて、その程度の犠牲を払うことは女性が生まれながらにもつ性質と合致するからと外部から強制された途端、育児と家事が本来もっている生き生きとした生命力のオーラが消えてしまう。
どんなことでも、他人の意志から出発すると、その輝きと原動力が失われてしまうものだ。

チョン・アウン『主婦である私がマルクスの
「資本論」を読んだら」p.183


これを読んだとき、
「わたしは家事を強制されているから嫌なのか!」という納得感に、おもわず声が出た。


私も働いていたときから一転、子どもを産んで「主婦」になったとたん、当たり前のように「家事」は私の仕事となった。

夫は決して、家事を私の仕事だと押し付けてきたりはしない。

それでも、物理的に家にいる時間が長い私が、家事を進める。
そうしなければ、家がまわらないからだ。
必然的に、「家事」はわたしの役目となり、夫の出番は少なくなった。


この、「家事」をする立場にならざるを得ないことに、私は苦痛を感じていたのかもしれない。

そして、この「家事は私がするしかない」という認識を、私が私自身に押し付けていることに気づいた。

だれも私に家事を全部やれ、なんて言ってない。私が勝手にそう思ってただけだ。



あれ?
じゃあもしかして私、「家事」そのものは、そんなに嫌いじゃないのでは?


だって私は、育児の合間にお菓子を作る。
床をピカピカに拭くときもある。
家族のために夕飯をつくって、喜んでもらえると幸せだ。

進んで「家事」をしているのだ。
本当に「家事」がきらいなら、やらなければいいのに、だ。


多分わたしは、「料理」も「掃除」や「片づけ」も、本当はそんなに嫌いじゃないんだ。
だから、「ていねいな暮らし」で家事をするようすを見るのが楽しい。

ただ、その「家事」を”自分のために好きなように”やるのではなく、子どもを産んで家にいるがために”全てやらざるを得ない立場になった”ということに、苦しみを感じたのだった。



でも、それは仕方ないこと。

好きなことだけしていればいい時は終わったのだ。
大人になった。
親になったのだから。


じゃあ、どうすれば。



家事をやめるなんてことは、できそうもない。

「家事」を強制してくる夫がいるわけではないけど、子供たちが生活するためにも、やっぱり誰かが「家事」をしないと。



ただ、少なくとも私は「家事」そのものが嫌いじゃない、ということを自覚できた。

そのため、前よりすこしだけ気分よく「家事」に取り組めるようになった。


苦手だと思っていた「料理」も、「家族のためにしなきゃ!」と、せかせかと作るのではなく、私が食べたいものを作ればいっか、と思うようになった。


「掃除」や「片づけ」も、「なんで私ばっかり!」とイライラするのではなく、やれる範囲でやるようにした。

もちろん、そのせいで家がままならないときもある。
だが、そういう部分は夫がカバーしてくれたりもして、なんとなく、前より楽にやっていけるようになった。


結局わたしは、「家族のために犠牲になって家事をしている私」に酔っていただけだったのかもしれない。



自分の立場はなかなか変えられないが、自分の置かれた立場を理解するだけでも、気分は変えられるもんだなあ、とおもう。



こんな気付きをたくさんくれるこの本。
家事の合間に少しずつ読んで、また記事を書きたいとおもう。




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