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「二番煎じ」でもいいじゃない。



自分より「スキ」やフォロワーが多い方の記事一覧を眺めていると、偶然、私がこれまで書いた記事と、ほぼ同じ題材のものを見つけた。


題材がかぶっている記事は複数あった。
そして、その記事にはどれも、とってもたくさんの「スキ」がついていた。


それを読んだときの私の正直な心情は、

「パクリだとおもわれたら、どうしよう」
「同じテーマなのにスキが多いってことは、私の方が書くの下手ってことになるのかな?」

悔しい?恥ずかしい?
いや、むしろまわりまわって尊敬?

なんか、いろんな感情が渦巻いてしまって。
そんなことでグズグズする自分の心の狭さに、ちょっと傷ついた。



でも、今の時代、「二番煎じ」以外のものを書くほうが難しいのではないだろうか。


だれでもネットにアクセスして、なにかを調べたり書いたりできる時代。
よっぽど珍しい体験について書くとか、マニアックな方面で書くとか、そういう、すんごく尖った記事を書けば、「一番乗り」になれるのかもしれない。

でもそういう「尖り」を目指したいともあまり思わないし、そもそもそんなの多分書けない。

私は一体、何なら書いていいんだろう。


だれかがもう書いているなら読み手でいよう。

田中泰延『読みたいことを、書けばいい。人生が変わるシンプルな文章術』、p.100


田中泰延さん著『読みたいことを書けばいい』にあった、このひとこと。
私は初めてこれを読んだとき、ちょっと落ち込んだ。


「note」を始めようとしていたころだったので、「私の書きたいことなんて、絶対誰かがもう書いてるやん。誰も書いたことのないものじゃないと、記事にできないの!?ハードル高すぎ!」と焦った。


でも、著者の言いたいことはそうではないし、やっぱり「二番煎じ」の記事でいいんじゃないかとおもう。

例えば、同じテーマについて書くとしても、そこから感じることや考えることはそれぞれ。
自分の感じたことは、自分から生まれているので、間違いなく「一番乗り」の考えといえるだろう。

あるいは、その自分の考えを、自分らしさあふれる言葉や文で表現して書かれた記事も、唯一無二。オリジナルの記事といえるかも。

私自身の体験や考えを書くことや、表現の仕方にオリジナリティを出すこと。
こう書いてみると、当たり前のことだけど。

それなら私にも「誰も書いてないもの」を書けるかもしれない。

「note」でいうと、「スキ」やフォロワーの数、または文章の上手さなんかに目をやってしまうと、どうしても、上には上がいる。
その事実は、私にはどうにもできないこと。

だから、その人たちの記事はそれはそれで楽しめばいいし、私も堂々と私らしさを詰め込んで、「二番煎じ」の記事を書いていくのでいい。

コピペとか丸パクリして、同じものを生み出してるんじゃない。
「同じようで、同じじゃないもの」だから、堂々としてていいのだ。


そして、そんな「二番煎じ」の記事にも、誰かが共感してくれて、「考えが似てます~」といって、コメントをくださったり、記事を紹介してくださったりする。
わたしそのものを認めてもらえた気がして、とってもうれしい。

そうやって、わたしから誰かに繋がっていく。
同じようで同じじゃないものが繋がっていく。

それを気軽にできるのが、「note」のおもしろいところだなあとおもう。





そういえば、「二番煎じ」といえば、うちの兄弟でもやってしまっていることがある。

例えば、長男が何か言うと「面白い考え」だの「かわいい」だの、みんな褒めたてる。
でも、次男が同じことを言うと、「それ長男も言ってたなあ」とか「長男は言わなかったけど、次男は言うんだねえ」と感じてしまう。

次男の言動に対する私の感想は、いつも長男ありきだ。


「比べる」ってよくない。
それぞれの良さを認めていこう。
そう思っていたはずなのに、比べちゃってた。
もちろん、長男も次男もかわいいんだけどね。


次男の言動が「二番煎じ」になりがちなのは、当たり前だ。
だって、我が家で二番目に生まれた子なのだから。
そこに、良いとか悪いとかない。
次男にも私にも。

だから、もっと次男の言動を、ただ受け止めて感動してあげたい。
長男と次男、同じ経験で同じ言動があったとしても、新鮮な気持ちで楽しみたい。

「note」の記事もいっしょ。
「二番煎じ」は悪いことじゃない。
「note」の記事でも、兄弟の発言ひとつでも、何番煎じだろうと、そのまま愛していけばいいのだ。


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