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夫婦で、当たり前の「愛」を込めて。



夫婦の「思い出の料理」と聞いても、すぐにはぴんと来なかった。


思い出の、というからには、何か特別なエピソードが添えられていたり、格別に美味しかったり、最高のシチュエーションで食べたりが必要なんだろう。
でもそういうのが、思いつかなかった。





夫にも、「夫婦の思い出の料理って何かある?」と尋ねてみた。

おそらくnoteのことだな、と察しつつ、何も聞かずに考えてくれる夫。
でも、すぐにわたしと同じ顔をした。


「特別なものは思いつかんなあ。あ、クッキー作ってくれるの、好きやで」


へえそうなんだ。
まったく思いついていなかった、クッキー。 

どちらかというと、長男のために作っているものの余りを渡しているだけなので、夫への深い愛は込めていない。


でも案外、そんなものか。

こっちが愛の重み100%で用意した食べ物よりも、ありあわせで作ったおかずとか、毎日の味噌汁だとか、だれでも作れるホットケーキとか。
夫はそう言うのを、喜んで食べる。


自分にとって、与えるのが当たり前なくらいの愛情を込めた料理の方が、案外心があったまるものなのかもな。



当たり前の「愛」。

そういえばわたしも、「夫の当たり前の愛」が詰まった料理を食べたことを思い出した。




次男出産後。
授乳のために、夜中何度も起きなければならない時期があった。

夫には別室で長男を任せていたので、夜間はわたしが次男を見る。

長男だけのときは、夜間のミルクを交代することもあったが、今回はひとり。
それは、仕方のないこと。
特に、不満は抱いていなかった。


ある夜。
いつものように、次男の授乳のために、起き上がって時計を見た。

深夜2時。
ヘロヘロと泣く次男を抱え、戸を開けて、静かなリビングに出た。

そのままソファーに座ろうとしたとき、テーブルの上に、見慣れないものが置いてあるのに気がついた。
 


それは、おにぎりだった。


サランラップに包まれた、大きなワカメふりかけのおにぎり。ふたつ。
皿にも乗せられず、テーブルの上にごろりと置いてあるそれは、どうみても私のためのおにぎりだった。


でっか。
思わず近づいて持ち上げると、けっこう重みもある。

わたしはそれをひとつ持ち、そのままソファーへ腰をおろした。
次男の授乳をしながら、そっとラップを開き、一口かじる。
ワカメの塩気がちょうどいい、冷めきった固めのおにぎりだった。
大きなおにぎりの形から、夫の手を思い浮かべた。

そういえば寝る前に、わたしが「夜中お腹空くんだよね〜」とぼやいた時、夫は「代わってやれへんからなあ」と返事をした。

わたしはそれで納得して、すっかり忘れていたけれど。
夫なりに、夜中に起きる私のためにできることはないか考え、夜食を作ってくれたんだろう。

わたしは授乳のあいだ、ぱくりぱくりと、その大きなワカメおにぎりを食べた。
片手で持てるおにぎりなら手も汚れないし、ラップなのでお皿を片付けもいらない。
いろいろ考えた末の、このおにぎりなんだろうな。
そんなことを思いながら食べた。


いつもなら心細い、無機質な夜のリビング。
でもその日は、あったかかった。
授乳を終え、布団に戻ってからも、夫の手のぬくもりが、そばにいるような感覚だった。




翌朝、すぐ夫にお礼を言った。

「昨日おにぎり作ってくれてたやろ。ありがと。お腹空くって言ったの覚えてたんやね」

夫は、表情を変えずに頷いた。
そして、さも当たり前のような顔で言うのだ。

「まあ、おれにできるのはこのくらいやからね」

そしてそのまま、ゴミを捨てに行ってしまった。



ずるいわあ。
当たり前のように、優しい思いやりを示してくれる。
そうだ。夫は、そういうひとだった。

特別でもなんでもない。
あのおにぎりは、夫の当たり前の「愛」が詰まっていた。




世の中には、特別な料理がごまんとある。
GODIVAのチョコレートとか、高級フレンチのコースとか、そこでしか食べられない限定品とか。
でも、私たち夫婦にはあまり似合わない。


私たちだって、時にはレストランで美味しい物を食べ、旅館で懐石を堪能し、ご当地グルメツアーに夢を見るけれど。

やっぱりお互いが「思い出の料理」をあげるとするなら、それは家で食べているような、なんてことない食べ物なのだ。


適当に焼いたクッキーや、テーブルに転がったおにぎりが、わたしたち夫婦の「思い出の料理」。

それだけでじゅうぶん。
それでこそ、しあわせ。


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珈琲次郎さんの企画、二回目の参加。
テーマが、あったかいですよね。
それについて夫婦で会話するだけで和みます。
企画等いつもありがとうございます。





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