「だれ」の言葉なら、信じられるか。
わたしも気をつけないといけないなあ。
先日、妹と電話して、肝に銘じたことがある。
お互いに子どもができたことで、前より連絡頻度のあがった妹。7つ年下。
毎度、育児あるあるで盛り上がる。
本音で相談できる、数少ない相手だ。
そんな妹の悩みは、義母らしい。
詳しいことは知らないのだが、いろいろと口を出されるのが辛いという。
わたし自身は、実母も義母も遠いので、とやかく口出された経験がない。
それでも、些細な連絡ひとつで、えらく気が滅入ったことがあった。
妹の言いたいことは、よく分かる。
初めての育児。
だれもが「お母さん」を支えたいのだ。
でも、お母さん自身それを求めているかは、分からない。
本人が望むことを、皆がしてあげられたらいいんだけどね、これがなかなか。
今回の悩みについて、くわしく話を聞いてみる。
妹は熱弁してくれたが、わたしが聞くに、義の意見は、そんなにおかしなことではなかった。
それでも、妹はイヤだったようだ。
わたしの意見をたずねてきた。
わたしは、義母の意見に賛成した。
自分の経験から見ても、義母の意見に一理あるとおもったからだ。
妹は少し残念そうだったが、「お姉ちゃんが言うなら、そうなのかな」とつぶやいた。
‥いやいや。
それは、ちゃうやろ。
わたしが言うことが正しいんちゃうよ。
そう言いかけたとき、妹は言った。
「わたし、義母が言うことやからって、受け付けなくなってるかもしれない。義母に従うのが、イヤなだけかも」
‥うん。わかる。
わかるよ、その気持ち。
義母が言うから、なんかイヤ。
わたしが言えば、納得する。
でもそれって、おかしな話だ。
妹も、それに気づいたらしい。
冷静に自分のことを見つめる妹は、偉いなぁと素直におもった。
ある人が言うと否定しちゃうのに、ある人が言うと鵜呑みにしちゃう。
これ、わたしにも同じ経験がある。
言われたことの内容よりも、言ってくる人そのものに反発しちゃう。
よくないことって分かっている。
でも、感情が追いついてこないのだ。
「だれ」の言葉なら、信じられるか、ではない。
誰が言おうと関係ない。
相手が言う「意見」について、どう思うか。
どれを選び、どれを信じるか。
信じるのは「自分」なのだ。
最後は、自分で決めなきゃいけない。
今読んでる本にも、おなじことが書いてある。
『嫌われる勇気』の著者、岸見一郎さんの『本をどう読むか』の冒頭だ。
これは、人の意見でも、本でも、noteの記事でも、やりがちだ。
noteでいえぼ、フォローしている人の記事。
なんでもかんでも良いような気がする。
深く考えずに、「スキ」を押す。
その人が言うなら、そうなのかもな。
それも悪くないんだけれど。
じゃあ、よく知らない人がおなじことを書いていたら?
やっぱりそれがいいと思うだろうか。
思うなら、それは信じていい。
でも、そうじゃないなら、立ち止まる。
わたしは「書き手」で選んでいないか。
その人の意見を鵜呑みにしてないか。
自分の頭で考えているか。
そんなふうに、問いかける。
「批判」しながら読め。
本の中で、岸見一郎さんもそう書いている。
noteの記事も、本の主張も、あるいは誰かのアドバイスも、自分の心に問いかける。
批判して、吟味して、自分がたどり着いたもの。
それを何より、大切にしたい。
妹は結局、義母のアドバイスを受け、夫と話し合うことにしたようだ。
どんな結果になろうとも、妹が自分で決めたことがすばらしいと感じる。
妹から学んだ、一本の電話だった。
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