「兄弟」として、君たちが歩いていくのを見守りながら。
ここ数日、4歳の長男と1歳半の次男が、いっしょに遊んでいる。
いや、いっしょに遊んでいるわけではないか。
たまたまその場に居合わせて、長男の行動を、次男が笑っている。
ただそれだけ。偶然の産物。
でもそれが、ものすごく微笑ましい。
単品でも愛おしいのに、ふたりでじゃれあっているなんて。
かわいさ2倍。
そんなふうに、ふたりの様子を余裕の心持ちで見守っていられるようになったのも、ごく最近だ。
長男が次男をたたいたらどうしよう。
次男が長男の邪魔をして、泣いてしまったらどうしよう。
そんなふうに不安がっているときには、なかなかその場から離れられなかった。
次男もある程度大きくなり、互いの性格もわかってきたので、ようやく「兄弟」としてのスタートラインに立ったように見える。
これから、喧嘩して、殴り合って、泣いたり、叱られたりするんだろう。
片方がわがままを言って、もう片方を困らせたり、一つしかないものを取り合ったりするんだろう。
それでいい。
そんな健全な「兄弟」の喧嘩ができるといい。
わたしは兄弟喧嘩をしたことがない。
5歳下の弟、7歳下の妹とは、年があまりに離れているので、対等な言い合いすらしたことがない。
だから、兄弟喧嘩に慣れていない。
昔、友達の妹がおもむろに友達の頭を角材で殴り倒し、目の前で2人が大喧嘩を始めたのが、ややトラウマなくらいだ。
我が子たちの兄弟喧嘩も、安易に止めてしまわないよう、気をつけなければ。
下手に口を出してばかりいると、「お母さん、どっちが悪い?」などとジャッジを求められると聞く。
二人が作っていく「兄弟」の道筋を、なるべく邪魔しないようにしたいと思う。
「兄弟」といえば。
「3人目は考えてる?」と最近よく聞かれる。
妊娠するまでは、そういう質問に少しイヤな気分にさせられることもあったが。
今はたいして心を乱されなくなった。
深い関係の人ほど、そんな踏み込んだことは聞いてこない。少なくともわたしの周りの人たちはそうだ。
聞いてくるのは、近所のおばあちゃんとか、子育てセンターでたまたま出会ったおばちゃんとか。
つながりの薄い人たちとの世間話なので、別にダメージなんて受けない。
こんな言い方で申し訳ないけど、心が傷つくほど一生懸命話していないのだ。
話がそれた。
「3人目は考えてる?」の答え。
考えていた、というのが正直な気持ちだ。
先に言ったとおり、私は3人兄弟なので、そのことが極めて当たり前だと思っていた。
しかし、そんなことはなく。
現実問題、2人の子どもでも、忙しくて手が足りないと思うのに、3人目を果たして育てられるのか。
お金も心配だし、親も遠くて助けが求められないのに、本当にやっていけるのか。
そんな不安を考えてしまうと、「3人目も考えてるよ!」と、無邪気に言えなくなってしまった。
3人いると、賑やかだろう。
子どもがワイワイしている食卓の光景が目に浮かぶ。
やんややんやとおかずを取り合い、己の主張が飛び交う食事も、楽しそうだ。
一方で、人数が多くて支障が出るのも目に浮かぶ。
子供部屋は2つしかないし、人数が多ければ物も増える。
キャパオーバーでごっちゃごちゃになる家の未来も思い描ける。
うーん。
結局のところ、私や夫が「3人目」を欲しいとどこまで願うのか、なのかもしれない。
そして、その願いの中に、何人兄弟がいいとか、男や女がいいとか、そういう不確かな願いを込めたり込めなかったりする。
今はまだ、決めきれない。
あとこれは考えすぎだが、「3人目」と思ったら「双子」だったということが起きた時、いよいよ手に負えない状況になるのも恐れている。
世の中には、子どもが欲しい、欲しくない、性別にこだわりたい、たくさん産みたい、いろんな考えの方がおられる。
そして願ったとおりになる人も、ならない人も、まだ分からない人も。
そのことを考えすぎると、私は自分の意見が言えなくなってしまうので、あくまでいろんな考えがある、というふうに心に留めておいて。
いま、私にできることは、目の前の長男と次男を、とにかく愛して可愛がること。
彼らが、たったふたりの「兄弟」として、お互いを認め合い、支え合い、ぶつかり合いながら、ともに成長していくことを、後ろからそっと見守れる、母でありたい。
げらげら笑う二人を少し離れたところで眺めながら。
そして夫に見せるために、こっそり動画に撮りながら。
「兄弟」のあり方について、考えた午後だった。
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