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「わたしは弾く人ではなく教える人になろう」ーー高橋いつき先生

今回は、浦和にある「高橋いつきピアノ教室KLASSE」代表の、高橋いつき先生をご紹介します。KLASSEは2013年に北浦和で設立され、2019年に現在の浦和の教室ができました。本格的に音楽家を目指す子ども向けに、専門的なレッスンが行われています。

いつき先生と様々な先生方との出会いや、ご自身が指導者になって今考えていることなどを語っていただきました。いつき先生の詳しいプロフィールはKLASSEのホームページをご覧ください。

高橋いつき先生(左)とご主人の佐藤卓史さん

上がるのが楽しかったピアノ

――まず、いつき先生とピアノとの出会いを教えてください。

ピアノは4歳半から始めました。同じマンションに、2つくらい年上の仲の良いお姉さんがいて、その子がピアノを弾いていました。それを見て、わたしもやりたいと思ったのがきっかけでした。

――ご両親に勧められたのではなく、自分からやりたいといったのですね。

はい。自分からピアノをやりたいといって始めました。父も母も趣味でピアノを弾いていたので、家にピアノはありました。

――最初の先生のレッスンはいかがでしたか?

とても楽しいレッスンでした。週に2回のレッスンで、最初にソルフェージュを15分、その後30分曲を弾く感じです。演奏家を育てるような専門的な先生ではありませんでした。クリスマス会を開いて手遊びをしたり、音楽以外のイベントもある教室でした。

――実際にピアノを始めて、どんなところに楽しさを感じていましたか?

とにかくどんどん曲を進めるのが楽しかったです。「上がるの楽しい!」って。それで、あとで、本当にわたしは音楽が好きなのか?と気づくことになるわけですが。

――もしかすると、ピアノじゃなくてもよかった?

ほかに水泳、体操、書道もやっていましたが、どれも級が上がるのが楽しくてやっていました。評価が出るのが楽しい。そういう人間なんだと思います。

――お母さんは、いつき先生にピアノの演奏家になってもらいたいと思っていたのでしょうか。

それは母自身に聞いてみないとわかりませんが…。母は、自分がピアノ弾きになりたいと思っていたのではないかと思います。でも、音大の先生にみてもらって、あなたは指が弱いから無理だといわれて、あきらめたと言っていました。結局、母は演奏家になるための教育は受けていなかったのです。単に望むだけではだめで、きちんと教育を受けなければいけないと知ったのではないかと思います。

――最初の先生にはいつごろまで教わっていたのでしょうか。

最初の先生は松村美智子先生といいますが、小2の途中まで教わっていたと思います。わたしの進みが早くて、幼稚園のころからソナチネを弾いていましたので、自分には手に負えないとほかの先生を探してきてくれました。それで紹介されたのが金子勝子先生です。角野(隼斗)さんや牛田(智大)さんの先生ですね。

松村先生の家の近くに、弓削田(優子)先生が住んでいました。当時、弓削田先生が金子先生に習っていたので、「弓削田さんの先生だったらいいのでは」と、金子先生を紹介してくださいました。

――音楽家を育てる先生に教わることになったのですね。

金子先生の教室は、レッスンの最初にオーディションがあって、合格しないと入れないような教室でした。無事に合格して入れたのですが、しばらくすると行き詰まりを感じてしまって、教わっていたのは小3の終わりまででした。

――どのような点で行き詰まってしまったのでしょうか。

先生は音楽的な表現や弾き方を、歌とことばで教えてくれるのが基本でした。音楽的にはとても素晴らしく学ぶところも多かったのですが、ある程度曲が難しくなると自分自身で伸び悩むのではないかと感じていたのだと思います。

「音楽ってそういうものじゃない」

――やはり相性というものもあるのでしょうか…。その後はどうされましたか。

播本先生に習うために、小3の終わりに東京音大附属音楽教室を受験しました。播本先生は東京音大の先生で、東京藝大でも非常勤で教えていました。無事に合格し、小4からその教室の生徒になりました。

――東京音大の教室にいたころも、まだクリアしていくのが楽しいというのが続いていましたか?

そうですね。金子先生に教わっているころの話になりますが、指の専門の先生と、作曲の先生のところにも通い始めました。指の先生は御木本メソッドで有名な御木本澄子先生でしたが、そこではどれだけ指が動くか、毎回データを取っていました。その記録が上がるのは楽しかったですね。それで、とにかく指がとてもよく動き、バーッと弾けるようになってしまった。

ですが、5年生の時に播本先生に、「あなたは指がよく動くし好きなだけ弾けるから楽しいだろうけど、音楽ってそういうものじゃないのよ」と言われて、指の先生のところに行くのを禁止されてしまいました。播本先生も、御木本メソッドを信頼している方でしたが、わたしにはもうよくないと判断されたのだと思います。

指がカシャカシャ動いて楽しいだろうけど、その先の、頭の中の音楽に興味がなければその指は意味ないのよ、と。播本先生のところに行き始めてから、そうしたことを少しずつ意識するようになりました。
 
――指の先生に行くことを禁止されたときはどう思いましたか?
 
ああ、指の動きはもういいんだなと。打鍵の練習をしていても、どういう音を出すべきなのか、という理想がなければ意味がない。作品の背景を調べたり、楽譜を読み込んだりして、こういう音を出したいと思ったときに、やっとこのテクニックが役に立つ、ということを教わったのです。
 
「とにかくあなた弾けるわね」は全然誉め言葉ではないのです。弾けることが前面に出ている演奏ではなく、それをどう「音楽」として成り立たせるかということを、先生は教えてくれていたと思います。
 
――東京音大の教室にはいつごろまで通っていましたか。
 
小6まで通いました。播本先生に、あなたはどこの高校に行きたいの?と聞かれ、「藝高(東京藝術大学音楽学部附属音楽高等学校)」と答えたら、東京音大の教室にいたら東京音大に入ることになるわよ、といわれ、中学からは播本先生個人に教わることにしました。
 
中3の秋から、お忙しい先生のレッスンだけでは受験に向けて心配だったのと、入試の課題曲がモーツァルトだったこともあり、モーツァルトが得意な弓削田優子先生にもレッスンをしていただきました。
 
――そして、みごと藝高に合格されたのですね。
 
はい。藝高時代は播本先生一人に教わっていました。
 
――藝高にはいつから行きたいと思っていたのでしょうか。
 
小学校高学年のころからです。理由は、一番入るのが難しい学校だから(笑)。藝高に行けないレベルだったら、ピアノを続ける意味はないと思っていました。今は決してそうだとは思っていませんけど。

――コンクールには出たいと思っていましたか?

出たいというか出るのが当たり前で、今年はどのコンクールに出るのかなという感じでした。進んで受けたかったのか?と聞かれると、どうだかわからないです。

中学生のころはどのコンクールに出るか、自分で計画を立てていました。中2で学生音コン(全日本学生音楽コンクール)の賞を本気で取らないと、と思っていました。中3になると受験があり、学生音コンは時期的に難しいので、ドイツのコンクールとピティナ(PTNA)のG級を受けました。藝高の入試に関しては、賞歴は関係ありませんが、どの賞を取った人が合格しているかということはわかるので、参考にはなります。この賞を取れないとなると危ないな、と。模擬テストを受けているような感じでした。

母親を弟にとられた

――ご家族のことについてお聞かせください。ご両親はいつき先生のピアノにどのように関わっておられましたか。

毎日接していたのは母ですが、どのように教育するかの指針は父からきていたと思います。父は、この子をどうさせたいかではなく、この子はどうなりたいかを優先して考えてくれる人でした。

ただ、自分の行動には責任をもちなさいということは、常に求められていたと思います。一つ一つの練習も自分で責任をもつ。どの学校を受けるかも自分で責任をもつ。

――練習は自分からするほうでしたか?

ピアノを弾きなさいと母から言われた記憶はあまりありません。ただ、ピアノの前に座るまでに時間がかかる人間でした。ピアノのほうから近寄ってくるならやるけどー、という感じ(笑)。でも一旦座ってしまえばスイッチが入ってバーっと弾く。

――ピアノに関してはお母さまが付きっきりで面倒をみてくれていたのでしょうか。

小3のころまでは、母親は自分にべったりで、練習に付き合ってくれていました。でも、そこに弟が生まれて、生活がガラッと変わりました。母はわたしの付き添いがいっさいできなくなったのです。

最初は突き放されたように感じました。ずっと一緒にいた人が、急にいなくなった。「なんでだろうな?」って。

9年間、兄弟もいない、いとこもいない、小学校も離れていたから近所に友だちもいない。だから、七夕には兄弟がほしいとずっと書いていました。それで、赤ちゃんが母のお腹にいる間はとてもうれしかった。でも、いざ生まれてみるとうるさいし、母親まで取られてしまって。現実ってこうなのかと思い知らされました。何でも自発的にやれるようになるには良かったのかもしれませんが、少しタイミングが早かったです。自分の成長が遅かったのでしょう。小4、5のころは、弟がきらいでした。

――9歳のころに下の兄弟ができると、そのような葛藤が生まれるのですね。

でも、中1になったころに、ストンと気づいたのです。「ああ、母が弟にしている行動は、これまで自分にしてきてくれたことなのだ」と。今はそれを弟にしているだけで、自分にはもう必要なくなったことなのだと。それに気づいてから弟が可愛くなり、いろいろなことがうまく進むようになりました。そのころからピアノの面でもグッと成長したと感じています。

こういう人を音楽が好きな人というのか

――いつき先生が音楽の指導者を生業にしようと思ったのはいつごろでしょうか?

高校に入ってすぐ、衝撃的なことがありました。本当に入って2週間ほどだったと思いますが、「わたしは音楽を好きな人間ではない」とわかってしまったのです。ある人を見て、ああ、こういう人を音楽が好きな人というんだ、ということを知ってしまったのです。その人が今の主人(佐藤卓史さん)なのですが。

彼とは小6と中2のとき、コンクールで会っているのです。それで、一度も勝ったことがない。その人と藝高受験でも会ってしまって、いやだなーと(笑)。秋田からわざわざ来るなんて、やっぱり藝高はすごいところなのだと思いました。

一番左が高橋いつき先生(小6)。表彰されているのが佐藤卓史さん(小6)

――音楽が好きな人というのは、具体的には?

まず、知識がすごい。好きだから自分で知ろうとしている。自分が弾いている曲はもちろんのこと、音楽全般について知ろうとしている。わたしは、シューベルトがこの曲を書いたとき、ほかにどんな曲を書いているかなんて、知ろうとしていなかった。

そして、興味の持ち方のレベルが違う。ある授業で先生が黒板に音符を書いて「これはなんの楽譜ですか?」と問いかけました。ああ、これはシューベルトの野ばらだなと、すぐにわかりました。そこまでは普通です。次に先生が「この歌詞を書ける人はいますか?」と言うと、彼は前に出てバーッと歌詞をドイツ語で書いてしまった。彼は音楽に関わることなら、なんでも興味をもってしまうのです。それって好きかどうかなんだなあと思いました。

わたしはピアノ曲以外を自分から進んで聴いてこなかったので、彼に聴いたほうがいいCDを教えてとお願いしたら、翌日リストを書いてもってきてくれました。それがオーケストラの曲ばかり!しかもその書き方が細かくて、曲名には調や作品番号まできっちり書いてあるし、指揮者が誰でこのオケのCDが良い、とかいってくる。当然全部聴いたわけで、他にもたくさん聴いた中でこれらを選んだわけで。ああ、こういう人が音楽を好きな人というのかと思いました。

――すごい曲のリストを渡されて、先生はどう思いましたか?

音楽をやる人はこういうことに興味を持つべきなんだなと、単純に思いました。

わたしの場合は、親が作曲の先生や指の先生のレッスンを受けさせてくれました。自分の努力ではなく、環境を用意してくれた親のおかげです。自分の実力というより、そこで過ごしていればつく力でした。彼はそういう環境にいたからできるようになったのではなく、自ら欲してできるようになったのだと思います。

それで、高校に入ってからすぐ「こういう人がピアノを弾けばいいではないか。わたしは弾く人ではなく教える人になろう」と思いました。教える側の視点で音楽の授業やレッスンを受けるのも、また面白いのではないかと。自分が先生の指導を受けているときも、「ああ、ここではこういう説明の仕方をするんだな」、と聴いている感じでした。

第2回に続きます

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