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ショートショート/『夕暮れ、逃げ出した後』

『夕暮れ、逃げ出した後』


「自分が小学生だった頃のことって、思い出すことない?」

琴乃は私にそう問いかけて、視線を空に向けた。

夕暮れの堤防は通りかかる人も少なくとても静かで、たまに道路を走る車の音や、耳元を切る風だけが、私と琴乃の世界に入り込んでいた。
琴乃が、急に不安なことを言いだすものだから、怖くなった私は、もう取り合ってやんないとまで思ったけれど、いつもの癖で正直に答えてしまった。

「たまにあるよ。どんな友達がいたとか、何をして遊んだとか、自分が何をすきだったかとか。でももう、ほとんど思い出せない」

「私が一番思い出すのはね、自分が何者でもなかったってこと。」

「どういうこと?」

「あのね、小学生の頃の自分が思い出せないんじゃないの。自分が何者でもなかったことを、思い出すの。そういう自分が、今まで続いてきたんだって。」

「今もそうなの?」

琴乃は時々、こういう分からないことを言う。ほとんど私は共感できなくて、ただ聞き返すしかないような話。最初は私も身構えて、おそるおそる質問していくんだけど、何を聞いたらいいかその内わからなくなって、言葉が自然と出るに任せるようにしていく。不思議とそれで琴乃の機嫌を損ねたことは無いし、私もそうやって自然なやりとりをすることが苦ではなかった。むしろ、他の物事の大半より、こうして琴乃と話している方を好んだ。

「そう、今も。ずっとそう思ってる」

「何よそれ。ずっと思ってるなら、小学生の頃は自分を何だと思ってたのよ?」

「そこなのよ。今の私には、『何もない自分』以外の『自分』は無いと思っているし、今までずっと無かったと思ってるの。でも小さい頃はそうは思ってなかった。だから、『何者でもない』としか表現できないのよ。小学生の頃の記憶はあるんだけど、それが、「私」と今表現できるような何かに、どうしても結びつかない。だから、『何者でもない』の」

「ふーん。ねえ、そんなことより、さっきの話の続きを聞かせて。終業式をサボって、家にあるお金をかっぱらって京都に行った話」

「仕方ないなー。別にどうってことないよ。体育館に並ばされて話を聞くのが嫌だったし、そもそも通ってないようなもんなんだから私が出る意味ねーじゃんって、さ。

でもさすがに親は大慌てでさ、私が持ち去ったカードの履歴調べたらしくて、京都にまで追って来たわ。まじでびびったー。」

いつまで琴乃のこういう話を聞いていられるんだろう、と寂しく思いながら、私は琴乃の横顔をじっと見つめていた。いつも悪戯っぽく武勇伝を語る彼女は、家や学校からそうであるように、私の前からも、ふといなくなってしまう気がして、だけどこうやって定期的に会うことができているから、嬉しいと同時にやっぱり不思議なことだと感じて、「今」を目一杯彼女といようと私は懸命だった。

「でももう、学校ともオサラバだからせいせいしてる」

唐突に、でもさりげなく付け加えられた言葉。そこに、なるべく私に聞き取ってもらいたくないような、だけどその機会をうかがい続けていたような機微を察知して、私はおもわず目をそらした。琴乃と同じように空を見上げた。

「学校、辞めるってこと?」

「そう。あのね、親が今度は鹿児島に行くの。何回目かって感じだけど、慣れたもんだよ。むしろ横浜にいたのが長すぎるくらい。」

「そっか、鹿児島か。遠いね。」

「遠いよねー。まったく、華やかなりし少女の青春をなんだと思ってるんだろうねー」

「なによそれ。もともとそういうの興味ないでしょ」

「ばれたか」

「当たり前。見てれば分かる」

そっか。行っちゃうんだ。

今見ている河岸のこの景色も、もう只の思い出になっちゃうんだ。セピア色に褪せていって、額縁の中に小さく小さくまとめられて、やがてぼろぼろになっていく。空気の匂い、湿っぽい寒さ、風の音、悲しい気持ち、二人でいるくすぐったさ。全部全部消えて無くなる。

「ねえ、ひなた。やっぱり悲しい?」

「え?」

「私と会えなくなること。」

「それは、、そうだよ。」

「じゃあ、いいことしてあげる。」

琴乃は手を伸ばして私の背中に手を回してきた。耳が触れ合うくらいまで顔を近づけて、開いた口からは吐息の音が聞こえた。でも、その口から、言葉は出てこなかった。ただ、長くて重い、体のすべてを絞り出すような息が漏れてくるだけだった。

私が口を開く番だった。

「大丈夫だよ。琴乃はきっとうまくやれる。琴乃は強いから、どこでもたくましく生きていける。親とか学校とか、全部うまくいくから。ダメな時でも、私がいる。

鹿児島まで、必ず会いに行く」

だからありがとう。その言葉は胸にしまった。

もう言葉が出なかった。お互いのすすり泣く声を聞きながら、この今だけを、「今」を永遠に離すまいと力の限り抱きしめていた。

夕暮れの日が背中に当たって影を伸ばす。この影にあらがおうと、琴乃の体を抱きしめていた。

/自分でも何を書いてるかよくわかりませんが、一読いただけると幸いです。


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