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遅子建『アルグン川の右岸』

物語の舞台は現在の内モンゴル自治区最北端でロシアとの国境付近になります。自然とともに暮らしているエヴァンキ族、主人公の「わたし」が幼女から90歳になるまでのウリレンと呼ばれる集団共同体に集う人々の生きざまを語っていきます。

数々の強烈な印象を残すエピソードが次から次へと出てきます。私が最近読んだ小説だと、ジョン・アーヴィングの『あの川のほとりで』や『オウェンに祈りを』を思い出せてくれます。人種も物語の舞台も全く違いますが、家族の物語でもあるのでそう思ったのかもしれません。そういえば今作もジョン・アーヴィングの小説もどちらも熊が出てくるのも一緒であることに気づきました。まったくの偶然かもしれませんが。

読んでいくと「わたし」のウリレンは過酷な自然環境の中でその生死を翻弄されて生きてきたことがよくわかります。地理的な理由で、時にはロシアにときには漢民族に支配されて生きてきたのでしょう。そして、時代は1930年代ですので満州国を実質支配していた日本人も登場します。これまで自分たちの独自の、少人数での移動を伴う集団生活、トナカイを家畜としながらも信仰の対象としてきたような生活。この物語で語られる70年ほどのあいだに変化は急激に大きくなり、そのような生活ができなくなっていく。その悲しさをおもしろエピソードの裏に感じることができます。

私が好きなエピソードは何個もありますが、まずはダシーと鷹のエピソードになります。孫ができないダシーは代わりに鷹を飼い始めます。オオカミに襲われて足が不自由になったダシーは鷹を飼いならし復習するのだと言いはります。

タカは果たして羽根音を響かせて戻ってきた。自分だけでなく、キジをくわえて戻ってきたのだ。それは羽毛は深緑色、尾は長く、とてもきれいなオスのキジだった。タカはキジをダシーの目の前に置いた。またたく間にダシーの目から涙が流れた。アオムリエが、何も食べないダシーをみて、彼のために食べ物を探してきたと知ったからだ。

白水社『アルグン川の右岸』P70

ダシーはウリレンのつまはじき者で滑稽な言動をばかにされているような人物ですが、タカと信頼関係を気づき生きる望みをつないで行きます。ダシーとタカのコンビがその後どうなるかを知ると、ものすごく悲しい物語ができあがります。

もう一つ上げると、「わたし」が道に迷い黒熊に遭遇するところです。

「黒熊は前世は人間だったが、罪を犯したため、天の神は獣に変え、四つ足で歩くようにしたんだ。でも時には、人間の振りができ、立って歩くんだ」
黒熊はまるで悠々と風景を愛でながら歩く人のように、満足げに首を揺らしながら一歩一歩私に近づいてきた。突然私はイフリンの言葉を思い出した。
「熊は目の前で乳房を出している女は襲わないんだ」
私は急いで上着を放り投げた。自分は一本の木で、二つの露出した乳房は雨で潤ったあとに出てきた新鮮なヤマブシタケだ。

白水社『アルグン川の右岸』P114

このあと「わたし」は他のウリレンの男ラジタと出会い、結婚します。ある意味幸せなエピソードといえます。「わたし」はここが幸せのピークでここから時代のながれに翻弄されていきます。

生と死が対になって語られているところも特色です。たくさんの人が亡くなり、同じだけたくさんの人が生まれてきます。少人数のウリレンを守っていくための、計算できない遺伝子に組み込まれた知恵のようなのかもしれません。それも悲しい運命ではあります。
・ダシーとタカが復讐をはたし死亡したら、息子夫婦に子供ができる。
・ラジタがヤマネコの家族を弓矢で射るのをやめ生かしてやると、「わたし」がヴィクトルを身ごもる。
・ニハオが可宝林の息子を助けると、ニハオの息子ゴーゴリが木から落ちて死んでしまう。
・ニハオが馬糞茸を助けると、ニハオの息子ジョクトカンがハチに刺され死亡。
まだほかにもあるのですが、とにかく普通に死にません。

現在に生きる私達の死亡原因は老衰が一番多いのでしょうか。この小説の登場人物の死亡理由はさまざまあります。それも自然の中で生きていく者たちの宿命なのかもしれません。しかし、彼らも文明のルールの中に徐々に足を突っ込んでいくと、多くの人が老衰で死亡していくことでしょう。おもしろエピソードの中に隠れたかなしみ、物語が進むにつれてその悲しみが大きくなっていくのを感じながら読みすすめました。





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