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あれから13年|今改めて3.11を振り返る

※本記事には地震と津波の描写が含まれています
※7000字以上の長文となりましたが、時系列を追って当時の状況を
 お伝えしたいので目次は付けておりません。

東日本大震災の教訓は生きているのか

月日が経つのは早いものだ。
良くも悪くも記憶というものは色褪せる。

今年の元旦、
能登半島震災の発生時に「アナウンサーの呼びかけ」が話題となった。
彼女の危機感を煽るアナウンスの仕方に批判の声が出たということに、
私は驚きとショックと落胆を隠せなかった。
あんなに繰り返し語り継がれ、また今の時代、当時の映像をYouTubeでいくらでも振り返ることができるのに、こんなにも早く教訓というものを人は忘れてしまうのかと。

2011年3月11日、私はこれまでの人生で物理的には一番死に近い経験をしたと今でも思っている。
それほどに強烈な体験だった。
だからなおのこと、この時期になると定期的に津波の動画を見返すようにしている。
あの日の教訓と、人はいつ死を迎えるかわからないということを胸に刻むために。

震災時の状況

当時私は東品川の客先に常駐して仕事をしていた。
フロアは最上階の27F。

3月9日だったと思う。
いつもに比べて「少し大きいな」と思うような地震があった。
少なからず驚きはあったが、同じフロアの別会社の人も私たちも含め
「まぁまぁ、大丈夫っしょ。大したことなくてよかったね。」と
楽観的に構えていた。
後にあんな大地震が起こるとは夢にも思わなかったのだ。

3月11日(金)の朝、
私はイライラしながら出勤した。
いつもクライアントからの無茶振りに鬱憤を溜めていたからだ。
そして、この日の定例会でとうとう不満をぶちまけてしまった。
若気の至りではあったものの当時の上司は肝を冷やしたに違いない。
だが、日頃の頑張りを評価してくれていたのか、クライアント側の担当課長はよく耳を傾けてくれた。
ほどよくニャンニャン甘えながら懐に潜り込んでいてよかったなと思った。

鬱憤を晴らした興奮冷めやらぬなか
デスクに戻って上司と振り返りを行い、
今後のタスクを整理した後で、問い合わせ対応を再開した。

その当時はクライアント先のシステムの問い合わせ対応をする仕事で、
私は現場のサブリーダーという立場だった。

長野の支社から問い合わせの電話が入る。
システムの使い方と運用に関する問い合わせだったと記憶している。
確認のため電話を一旦保留にし、回答のため通話を再開した14時46分。

今まで味わったことのない突き上げるような縦揺れが
ワークチェアを踊らせる。
私は9日の地震と同じく、しばらくすれば収まるだろうと
努めて冷静に対応を続けた。
しかし、揺れは一向におさまる気配を見せないどころか、
より激しさを増してゆく。
直感的に「マズい」と思った私は
電話越しの相手に現在の状況を伝えた上で、
通話を一旦切っていいか打診をする。
向こうも揺れを感じていたらしく、
互いの身を案じる言葉を掛け合ったその瞬間、
私は椅子から強引に振り落とされた。
その落とされ方があまりにもコミカルに映ったため、
周りも私自身も一瞬失笑してしまったが、
すぐにそのような笑顔は吹き飛んでしまった。

揺れはさらに激しさを増す。ここまで全て「縦揺れ」だ。
いや、正確には縦揺れと横揺れのミックスだったと思うが、
三つの震源で連続して地震が発生したため、
縦揺れが継続して襲ってきたのだ。

地震が起きた時に思い出すことは「机の下に入ること」くらいしかない。
「机の下に隠れろー!」と誰ともなく声がけし合って、
皆で一斉に身を潜める。

ここからがさらなる地獄だった。
床が波のように打ちつける。さらに最上階ということもあり、
縦揺れ後の横揺れで、本当に床が斜めに傾いていることを実感するほど
ビルが揺れていた。
もうこのビルは折れてしまって、
今いるフロアごと地面に叩きつけられるんだろうと思った。
揺れ開始直後の阿鼻叫喚はだんだん鎮まり、
皆何かを覚悟したような空気に包まれる。
目に映るものといえばデスクの下の暗闇だけ。
そこに揺れが重なり、
ほとんどブラックアウトと言ってもいいような暗闇だけの光景だった。
もう皆、揺れに合わせて「うっ」と小さな呻き声をあげるのに精一杯だ。

長い、とにかく長い。ビルが折れる。ああ、死ぬんだとおもう。
今の妻である当時の彼女はどうしてるかと頭をよぎる。
最後に一声交わしたかったと思う。
揺れは横にさらに激しさを増す。
映画やアニメの世界でしか観たことがない光景だ。
どんなに無宗教な人間も何かに祈るしかできない。
ただただ必死に祈り、同時に死を覚悟していた。

しかし、次第に揺れが少しずつ、いや、スッと収まったと思った。
ピタッと、そして静けさを取り戻す。
皆一様にデスクの下から這い出て立ち上がり互いの顔を見渡す。
机の上は乱れ、モニターは倒れ、ホワイトボードも壁に倒れ込むように
突っ伏していた。
まだ生きているという実感と安堵が胸に広がると同時に、
皆、今起きたことへの興奮も高鳴ってくる。

大地震後の状況(職場待機などの話)

「あ、見て!煙が出てる!」と女の子の悲鳴のような甲高い声が響き渡った。
海側の方に目をやると、工場なのかビルなのか出火元はわからないが、
確かに黒煙を吐き出している建物がある。
本当に世界の終わりを見ているようだ。

その後、クライアントも私たちのフロアに駆けつけ
その場で安否確認を行う。
互いの生存を確認してハグし合うものもいる。
当然だが指示があるまで業務は停止し、その場で待機。
幸いにもネットは復旧しているようだったので
Yahooニュースと睨めっこをしていた。
次々と被害の様子、怪我人、死亡者の情報が入ってくる。
そして、津波のことも。

今では誤報とされているが、
当時一番ショッキングだったのは
「仙台市若林区で200〜300人の遺体を確認」という
ニュース速報だった。
どこで何が起きているんだと、
目の前の情報が現実に起きていることなのかと
信じることができなかった。

そして、たびたび余震が襲いかかってくる。
皆、恐怖さめやらぬ中の余震。
何度も何度も机の下を出たり入ったりした。

一時間ほどしてから、どんな基準だったかは忘れたが、
おそらく都内在住の人間は帰宅を許された。
他県に越境しなければならない人間は待機継続の指示。
結局その日は職場待機にて一泊することになった。

夕刻を過ぎ、カンパンとミネラルウォーターが支給される。
そして皆で窓から外の様子を伺った。
その時、思わぬ光景を目にすることになった。
東京、品川近辺の道路がすべてわかるくらいに、
網の目のような赤いテールランプが煌めいている。
不覚にも「キレイだな」と思ってしまった。
所謂、「帰宅難民」というやつだ。

それにしても地震が収まってから一向に携帯電話が通じない。
彼女と連絡が取れない。無事でいてくれることを祈るしかなかった。

3つフロアを下ると、ソファ席の設置されている休憩室があった。
その日はそこを寝床とすることにした。
エレベーターは全て停止しているため非常階段を使って降る。
非常階段の壁の一部が見事に剥げ落ちていた。
揺れがいかに激しいものだったのか、改めて思い知る。

休憩室のソファの上に寝転んでも
眠気は一向に訪れなかった。
それもそのはず、1分に一回、ひどい時は30秒に一回か?というペースで
震度3や4の余震がビルを揺らすのだ。
まるで荒波の上のフェリーのような感覚で
私たちは三半規管が狂いそうになり、
ほとんど船酔いにも近い状態に陥っていた。

帷はとうの昔におりて暗闇。
赤いテールランプ。建設途中のスカイツリー。
良く折れなかったなと妙に感心。
中空をぼぉっと眺めるしかない。

一度夜中に強い揺れが襲ってきた。
急いで上司と合流。確認すると今度は長野の方で震度6とのこと。
今日途中まで対応していたお客様は無事だったろうか。
しばらく上司や他社の人と雑談を交わし
休憩室に戻った。

震災翌日、そして福一の事故へ

3月12日(土)
結局ろくに眠れないまま朝を迎える。
帰宅許可が出て乗り込む逆方向の
朝の京急線。
同じように職場で一晩明かしたのだろうと思われる疲れた顔のサラリーマンとおしくらまんじゅうしながら帰る。

家につき彼女と無事に再会する。
嬉しさと興奮で互いにあーでもないこーでもないと、
その日あったアレコレを思いのまま話していた。

ようやく携帯の電波も復活したので
兄弟や両親に一報を入れた。
そこで思わぬ父からの一声。
「原発がなんもないといいけどのう」
心配しすぎだとタカを括って
「いや、まさか、何も起こらんやろ」
と返事を返したものの嫌な予感がした。
昔からチェルノブイリやスリーマイルの
事故のことを父から聞かされていたので
もしかするともしかするかもと、
ネットとテレビで朝から情報を追い始めた。

するとすでにネットの中では大騒ぎになっている。原発の電源喪失による冷却機能が止まっていたからだ。
私はYouTubeや東電の公式サイト、そのほか原発関連の報道を行なっているページをくまなくチェックしながら動向を見守った。

記憶が曖昧だが、当初テレビでは問題は確認されていないというような
報道だったかと思う。

ネットの中は見事に意見が割れていた。
メルトダウンの可能性、臨界の可能性、
爆発の可能性、放射能流出の可能性と。

名だたる大学教授や学者がメルトダウンや臨界、
爆発や放射能漏れはあり得ないという。
所謂、御用学者と呼ばれる存在がいることを初めて知った。
現状起きている事態を鑑みれば、あまりに現実と乖離した楽観論を
平気で唱えている。
少し原発の知識があるものからしたら、
逆に専門用語で安全性を捲し立てている学者の姿が
何かを隠すのに必死なように見えた。
実際に隠す意図があったのかは今でも定かではないが、
少なくとも原発利権関係者や原発村を守る擁護発言にしか
聞こえなかった。

随時、圧力容器内の水温と水位が報告されてくる。
緊急対策本部の慌ただしい様子と緊張感。
記者会見が数時間おきに設定されるも
東電職員の専門用語の多さと歯切れの悪さ
わかりにくさで要領を得ない。
そして何より社長や副社長など経営陣が
なかなか姿を表さなかったことも印象的で
腹立たしかった。

とりあえず何かが起きてからでは遅いと思い
彼女とでかけ、今のうちに食料と水の確保に向かう。
スーパー内では特に混乱もなく、そもそも皆原発に関心など抱いていないのだなと思った。
いかに原発安全神話がこの日本に根付かされているかをはからずも実感した瞬間だった。

買い物から帰宅して、再度ネットとテレビで情報をおいかける。
15時40分を回ったあたりだろうか。
最悪な速報が飛び込んできた。

「一号機にて爆発のような事象を確認」

概ねこのようなテキストでの一方だったと思う。
リアルタイムで中継されていた緊急対策本部も一気に色めき立つ。
その後しばらくして、テレビで映像が流れ始めた。
何度も繰り返される爆発の映像。
だが、思っていたよりは小規模な爆発で
少し安堵した。
おそらく臨界での爆発ではないだろうと予想がついた。
最終的な報告も格納容器内に溜まった水素起因の爆発だということだった。
しかし一号機の建屋は吹き飛び、更にこの爆発が2号機と3号機の電源ケーブルに損失を与えることとなるのだった。

その夜も私は寝なかった。
当時すでに同棲していたため、夜に揺れた場合に備えて、いつでも彼女を起こせるようにと。

余震は続く。
鳴り止まないニュース速報。
自分の心臓の鼓動すら地震の揺れだと
錯覚する。
これは大袈裟な表現ではなく、おそらく当時の東日本在住者のほとんどの人が同じような感覚に襲われたのではないだろうか。

疲れは限界に来ているが寝落ちするわけにはいかない。
何度もコーヒーを淹れては少しずつ啜って眠気を覚ましていた。

夜が明ける。3月13日(日)。
テレビをつけると、津波の衝撃的な映像とともに
随時、福島第一原子力発電所の様子を映し出すようになった。
2号機と3号機の水温と水位について報告が上がってくる。
どうやら3号機の炉心溶融が差し迫っているようだ。
その日からだったか、記憶が定かではないが、
徐々にコンビニやスーパーなどでミネラルウォーター等の
買い占めが始まっていた気がする。
とにかくこの日も寝る間を惜しんで東電の緊急対策本部の様子と
タイムラインで表示される1~4号機の様子を逐一追っていた。

未曽有の事態の中で(原発の知識と労働者の権利)

3月14日(月)。
朝、会社から思わぬ一方が入る。
「本日ビジネスホテルに前乗りして、明日出勤してほしい」との
指示だった。
私は当時のエリアマネージャーに徹底的に抗議した。
未曽有の災害に加えて、世界でもチェルノブイリ以来、
類を見ない未知の事故が起こっている。
そして1号機の建屋は屋根が吹き飛んでおり、
放射性物質を含んだ湯気がもくもくと立ち上がっている状況だ。
そんな非常、いや有事にもかかわらず、
「席数を確保しなければならないから」という
呆けた理由で人命の危険を曝しながら出勤を要請するとは
正気の沙汰とは思えなかった。

13年経った今の感覚であれば、
そして結局のところメルトダウンを起こした事実が発覚した後の
今であれば、私と同様の感覚を持ってくれる人がある程度はいてくれると
思っているが、当時はそんな真っ当な懸念をもっている私に対して
嘲笑うかのような、面倒くさいやつを相手にするような反応が
エリアマネージャーから返ってきたのだった。
「あの、なんか言いたいことはとりあえず後で聞くからさ。
とにかく出てくれない?これ会社の指示だからさ。」
当時のエリアマネージャーを責める気はない。
根は良い人だということは知っていたし、結局のところ
国民が皆、知らなかったのだ。無知であるがゆえに、
ある種、洗脳されていた。
そう、私は敢えて洗脳という言葉を使う。
なぜなら原発の安全神話はメディアをも利用した立派な
宣伝戦略だったからだ。
誰も自分が無知で洗脳されていたとは思わない。
だってそうだろう?
昨今の統一教会の話にしてもジャニーズ問題にしても、
五輪の裏の汚職にしても、
知ってはいたけどそれを「問題にすることができなかった」のだから。
※敢えて某疫病とその対策のことは言及を避けることとする。
そして当時、もう一つ問題に上げられるのが従業員の安全や権利が
軽視されていたということだ。
所謂ブラック企業がブラックだと認識されるかされないかくらいのタイミングだった。
沢山残業をすることが会社への貢献とされ、余暇を充実させることよりも
如何に多くの時間を業務に充てられるか、休日出勤にサービス残業、
果ては何日連続で徹夜できたか?が武勇伝とされるような時代だったのだ。

収入を確保するためには、出勤せざるを得ないと判断した私は、
奥歯で苦虫をかみ殺すような気持で出勤を承諾した。

とりあえず今日はホテルに泊まれればそれでいいので、
ギリギリまで原発の事故状況を追うことにした。
そして、11時1分、3号機の爆発が確認された。
13時か14時ころには繰り返し爆発の模様がテレビに
映し出されていたと思う。
風向きによっては、関東にも放射性物質は流れてくるだろう。
働くという意味、会社のために仕事をする意味を考えざるを得なかった。
また、私は契約社員として働いていた為、なおのこと正社員のような
忠誠心を会社に抱くよう強制されることにはらわたが煮えくり返っていた。
人を、従業員を、放射性物質のリスクをなんだと思っているんだろう?

ホテルに到着し、彼女に電話をかける。
互いに気を付けるように声を掛け合う。
部屋の電気を消した後も、度々余震が襲ってくる。
死ぬときは死ぬんだろうなと密かに覚悟を決めていた。

出勤したら出勤したで開口一番、上司からこんな言葉が出た。
聞いたよ「〇○さんに相当文句言ったらしいじゃん。心配し過ぎだって」
確かにこの文章を書いている私は今も生きることができている。
ただそれは、ひとえに幸運だっただけだとも思っている。

とはいえ、職種によっては、特にエッセンシャルワーカーと
呼ばれる職種については、それでも就業しなくてはならないことも
あるのだろう。
社会のインフラ、医療。人の暮らし、命、生活。
ならば、某疫病の際も議論の的になったが、
それらの人々の給与はなぜ低いままなのか。
堀江氏が唱えていたように、「希少性がない」仕事だからだ
というのであれば、そのような人たちがいなくなった世界を
想像してみてほしい。
私は仮にエッセンシャルワーカーだったとしても、
出勤は拒否したかもしれない。
世の中の本当の格差とは、こういうことなのかもしれない。
人命と人権と、そして所得の格差だ。

改めて現在を省みる

その後は、皆さんご存じの通り、福島第一原子力発電所は
今も処理水の問題や復興作業の目途に頭を悩ませている現状だ。

日本のエネルギー政策、エネルギー問題を考えると
また、昨今の原油高を考えると原子力に頼らざるを得ないという
論調が巻き起こっているように思う。

ふむ、手段としての原発は勿論選択肢の一つではあろう。
しかし、昨今の風潮は原発か電力不足を飲み込むか?
といった歪んだ二択を突き付けられているようでならない。
クリーンエネルギーへの投資や研究額はどれくらい
配分されているのだろうか。
また、ソーラーパネルや風力以外での発電方法などのイノベーションに
どれだけ注力しているのだろうか。
これは個人的にも調べてみる必要があるかもしれない。

実際に、当時これだけの経験と恐怖を味わっているからこそ
昨今の風潮に危機感を覚えるのだ。

さて、今年の元旦に起こった能登半島地震でも
志賀原発のトラブルが少しだけ話題に上った。
しかし、アナウンサーの呼びかけの件と同様、
どこか原発のことは遠い昔の話のように片づけられている気がする。
原発の処理水の話も、それ自体の問題よりは近隣諸国への
反発感情を煽られるようなメディアとネットの論調が目立つ。

我々は、この2011年3月11日の震災から改めて何を学ぶべきなのか
当時の日本社会が抱えていた問題は何だったのか、
今どれだけのことが、当時の反省をもって改善されているのか?
改善しきれていない課題はどれだけあるのか?
また同じ過ちを繰り返しそうになっていないか?
見直す必要があるのではないだろうか。

私は妻とともに、特に妻が主体となって
いざとなった時の備蓄品や防災グッズを揃えて
災害時、すぐに持ち出せるように準備をしてある。

災害そのものもそうであるが、
いざ、同じような事態に見舞われた場合に、
社会や共同体の一員として、どのようなことができるか
また、今のうちにどのように変革を促していかなければならないか
改めて考えるきっかけとしたい。


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