小説|腐った祝祭 第一章 25
朝からナオミは緊張していた。
生まれて初めてオペラを見に行くのだから、それも仕方のないことだ。
念入りに化粧を施され、髪を整えられ、一番いいドレスを着せられ、後は出かけるだけと準備が整っても、表情が少し硬いのだった。
「あのね、試験を受けにいくんじゃないんだよ。楽しみに行くんだ。そんな顔するんじゃないよ」
サトルはからかい半分にそう言ってやるが、ナオミは少しふくれて言い返す。
「セアラったら酷いのよ」
傍に控えていたセアラに、急にナオミの緊張顔が移動した。
サトルが目を向けたからだ。
ナオミに視線を戻して聞く。
「なに?」
「私のこと着せ替え人形だと思ってるんだから」
着替え中に二人で何かを話していたのだろうが、サトルの表情が少しくもると、ナオミはそれに気付いて話すのをやめた。
「違うの。セアラはちゃんと私の世話をしてくれているのよ。ちゃんと敬語で接してくれているわ。私の言葉もずいぶん覚えてくれたのよ」
「うん。判ってるよ」
少しは疑っていたが、微笑んでナオミの髪を触る。
サトルは主人と使用人が友達のように馴れ合うのは嫌だった。
ナオミもそれは知っていた。
しかしナオミの自由さは、時々それを忘れさせることがある。
「お金持ちが沢山来るんでしょうね」
ナオミは急いで話を先へ進めた。
「いろんな人が来るよ。貴族も、商人も、青果市場の食堂のおばちゃんも。そう、清掃係も」
大使館の清掃係の一人が、運よくチケットを手に入れることができたので、今日は一日休みを取っていた。
今頃ウキウキとタキシードを着て劇場に向かっているだろう。
「いろんな人が今日の日の為におめかしをして楽しもうとしているのに、君はそんな顔をして。もったいないな」
「だって、オペラなんて縁がなかったんだもの。聴いたってきっと判らないんだわ。それなのに、サトルさんの知り合いから感想を聞かれたりするのよ。なんて答えればいいのかしら。あ、そうだ。言葉が聞きとれない振りをすればいいんだわ」
ナオミはとんでもないことを言って、本気で安心したように微笑んだ。
「その手は通用しないね。君がずいぶん言葉を覚えてしまっていることは、私の知人ならみんな知ってるよ」
せっかくの名案を却下され、ナオミは肩をすくめる。
「さあ、行くよ。それにね、君はオペラ、オペラって言うけど、今日のメインは飽く迄もアヴェ・マリアなんだよ。今年は国立音楽院のこの国最高のソプラノ歌手が歌ってくれる。まずそれに心を奪われて欲しいね」
ナオミの背を押して歩き出す。
「でも、5分くらいでしょう?」
ナオミは言いにくそうに、サトルの顔をちらりと見て言った。
「そうだけど、素敵な時間だよ」
そして、ナオミにとってそれは、本当に素敵な時間だったようだ。
歌声が流れはじめ、1分もすると彼女の目には涙が溢れていた。
サトルは音楽を聴きながら、視線はナオミに釘付けになってしまった。
ナオミはソプラノで歌う人物をじっと見つめていたが、そのうちに目を瞑った。
まぶたに押されて涙が頬をつたう。
歌が終わり大喝采の中、サトルはナオミにハンカチを渡した。
「どうしたの?」
「よく判らない」
そう言って、ナオミは涙を拭いた。
「なんだか、胸が苦しいくらいに……。言葉判らないし、今までだって聴いたことあるのに、どうしてかしら」
拍手はまだ続いていたが、人々の関心が徐々に次の題目に移っていく雰囲気が感じられた。
「綺麗な声だった。本当、素敵だったわ」
「うん。良かったね」
ナオミのこめかみの辺りに、サトルはそっとキスをする。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?