小説|青い目と月の湖 22
コーヒーはこの村では高価な飲み物だった。
村にコーヒー農園はなく、行商人から手に入れるしかないからだ。
だから村では紅茶の方がよく飲まれた。
ハンスも今までにコーヒーを飲んだことは数える程度だ。
それもまだ父親が生きていた頃の話だ。
苦くてあまり美味しいとは思わなかったし、エレンも子供は飲んではいけないと言っていた。
子供には刺激が強いという話だった。
それで大抵、父親はこっそり自分のコーヒーをハンスに飲ませてくれた。
もちろん、そんな苦いものを飲ませられても、正直嬉しくはなかったが、母親に秘密でそうすることが楽しくはあった。
そのコーヒーを、今、クロードが飲んでいる。
ハンスの家の居間で、クロードはゆったりとくつろいでいた。
朝から仕事で村に来ていた。
今日はクロードが役に立った。
お蔭でロディーが助かった。
クロードの話しでは、ロディーの左足に巨大な芋虫のような魔物が取り付いて、ギリギリとその足を締め付けていたそうだ。
ロディーは足が痛いと昨夜から苦しんでいた。
今は自分のベッドで昨日の分を取り返すようにぐっすり眠っていることだろう。
眠りに入る前にロディーは、クロードに「ありがとう」と言ったらしい。
その帰りに、エレンが手柄を立てたクロードを労うように自宅に招いた。
「美味しいの?」
「実に美味しい。久し振りだ、コーヒーなんて。この村に来た時、村長の家で御馳走になって以来だ」
「ふうん」
エレンは居間にはおらず、キッチンで昼食の用意をしていた。
そもそもエレンはクロードを昼食に誘ったのだが、彼は遠慮してそれを断わっていた。
しかし、ハンスは陰で母親から、クロードを更に誘うよう指令を受けている。
ハンスは忠実にそれを実行する。
「ねえ、ご飯も食べていきなよ」
「いや、長居するのは迷惑だろうから」
「そんなことないって、母さんも言ってたでしょ」
「うん。まあ、ありがたいがね」
クロードはコーヒーを飲み終え、一息つくと何か特別なことでも言い出しそうなかしこまった顔をした。
昼御飯くらいでそこまで深刻にならなくていいのに。
役場のパークスさんだって、最近はクロードを褒めることもあるくらいなんだ。
みんなはクロードに慣れてきているのに、クロードがこの調子じゃ、いつまでたっても村に引っ越してこれないや。
「ハンス」
「なに?」
突然、キッチンでエレンが何かを落としたようで、金属が床に跳ね返る音が響いて居間まで届いた。
クロードは警戒するように口を閉じる。
そして、改めて言った。
「お前の部屋にいかないか」
「え?うん、いいけど」
廊下を挟んだ向かいの小さい方の寝室がハンスの部屋だ。
二人はそこに移動し、一つだけある椅子にクロードが座った。
ハンスはベッドに腰掛けた。
ベッドにテーブルに椅子、それに本棚だけという狭い部屋なので、小声で充分話のできる距離だ。
ハンスはエレン手作りのキルトのベッドカバーを、深い意味もなく撫でまわして、その凸凹の感触を楽しんだ。
クロードは言った。
「マリエルのことなんだが」
「なに?」
ハンスは、ああマリエルのことだったかと、納得して頷いた。
「お前、彼女のことをどう思ってる」
「は?」
「好きかい?」
「うん」
クロードは何が気に入らないのか、眉をひそめて目をつむった。
「何なの?」
「んー。つまり……」
考えても言葉が出てこない様子のクロードを、ハンスはじっと見つめた。
クロードは今日も薄いトレンチコートを着ている。
それを着たまま、ベルトもきちんと締めたままだ。
そろそろ夏だというのに、いつまでコートを着るつもりだろう。
誰にも内緒だって言われたから誰にも言ったことはないけど、ジルはクロードのことをハンサムだと言っていた。
もう少し身だしなみに気を付ければ、村にももっと馴染めるんじゃないかな?
まあ、無精ひげを生やさないだけいいとは思うけど。
そんなことを思って眺めていると、ふと思い当たった。
「クロード、もしかして」
「ん?」
「マリエルのこと好きなの?」
クロードは返事をする代わりに疲れたような深呼吸をした。
ハンスは顔をにやつかせた。
前にロディーが、キャシーとジェイの仲が良いのをからかっていた気持ちが、何となく判る気がした。
「そうなんだ?」
「私は、お前がどうかを聞いてるんだ」
「僕だって好きだよ。でも、マリエルは僕より年上だし、友達だよ。うわあ、そうなんだ、クロード。やらしーなあ」
「私はてっきり、マリエルはお前の初恋の相手だと思ったんだ」
初恋と聞いて、ハンスは頬を赤らめた。
からかった相手に逆にからかわれたと思い、濡れ衣を着せられた気がして、それを思い切り否定したくなった。
僕は関係ない。
そんなの、僕には全く関係ない問題だ!
「やめてよ!マリエルは友達だって言ってるじゃないか。僕はマリエルの最初の友達なんだ。それだけだよ」
「……そうか」
クロードはハンスをからかうような顔も口調も出さなかったが、ハンスは腹立たしい気分になっていた。
しかしそれも、クロードの冷静な態度を見ていると、徐々に落ち着いてきた。
落ち着くと、むきになった自分がバカらしくも思えてくる。
「なんなの、急にそんなこと言いだして」
「うん」
「もしかして、本当に好きになっちゃったの?」
「いや、まだよく判らない。ただ、もしそうなったとしたら、お前がどう思うかが気になったんだよ」
「僕は、別に……。僕はクロードもマリエルも大好きだもん。反対とかしないよ」
「そうか」
「ねえ、もし二人が上手く行ったらどうなるんだろう?」
「ん?」
「作戦立てなきゃいけないよ!例えば、クロードが一回この村を出るんだ」
「出てどうする」
「それで帰ってくるの。それで、マリエルと町で出会ったってことにして、彼女を村に紹介するの。ね?これ凄いアイデアじゃない?」
「まあ、今思いついたにしては、なかなかいいかな」
「でしょ!」
「うん。でも、それは本気で言ってるのか?」
「何が?本気だよ。もっと練った方がいい?この計画」
「ああ、いや。いいんだ。まあ、考えておくよ。それじゃ、そろそろ帰ろう」
「駄目だよ。昼御飯食べないと」
「子供のお前はいいとしても、エレンに親切にされるのは遠慮したいんだ。彼女のためにね」
「母さんは、そんなの気にしないってば」
最近は母さんも、クロードを悪く言ったりしないんだから。
「私が気になるんだ。それじゃ」
ハンスは、すぐに玄関に向かおうとしたクロードをキッチンに引っ張っていった。
エレンは作り過ぎたおかずをクロードに持たせ、クロードは礼を言って帰っていった。
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