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小説|腐った祝祭 第一章 39

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 2月も終わるという頃に事件が起きた。
 サトルは外で夕食をすませて帰宅した。
 警備員が本館でクラウルが待っているというので、そちらの玄関から中に入る。
 クラウルは神妙な顔で近付いてきた。
「お帰りなさいまし」
「どうした?」
 サトルはタイを緩めながら緊迫感のない声で聞く。
 ミリアが傍にいないので、タイは緩めただけになった。
「会議室におこしください」
「おいおい。やっと帰ってきたのにまだ仕事か。誰か来ているのかい?早くナオミの顔を」
「ナオミ様のことです」
「なに?」

 会議室で待っていたのはリックだった。
 リックは頭を下げて話を始めた。
 いつものように、ナオミとセアラと三人で街に出かけたが、途中で五人の男たちからホールドアップにあった。ナオミは無事だということを、リックは先に言った。
「セアラが腕をつかまれましたが、すぐに振り払って、それも怪我はありませんでした」
「犯人は?」
「三人は倒して警察に。しかし二人には逃げられました。すみません」
「君に怪我は?」
「一発殴られただけで、怪我というほどでは」
「大丈夫なのか?」
「はい」
「そうか。ご苦労だったね。確かにナオミに怪我はないんだな?」
「はい。ナオミ様には指一本触れさせておりません」
「今どこにいる?」
 クラウルに聞く。
「お部屋でお休みになってらっしゃいます。お怪我はございませんが、大変ショックを受けておられて」
「警察は?ここに来たのか?」
「はい。ナオミ様が動揺されていたので一まずこちらに帰ってきて、警察はここで事情を聞いていきました」
「そう。まあ、ナオミが無事ならいいが。君たちもだよ。それで、いったい何処に行っていたんだ?」
 リックは申し訳なさそうな顔になってクラウルをちらりと見た。
 クラウルは頷く。
 リックはおずおずと町の名を言った。
「ハリーランドです」
 サトルの眉が少し痙攣する。
 街の中心地からかなり西に入った場所だ。
 もっと西に行けば貧民街になる。整備が行き届いていない、馬車の入れない地区だ。
 ハリーランドは馬車の通れるメインの道路はあるが、先の貧民街より治安は悪い。サトルが暇を持て余した時に足を運ぶギリヤ街よりも、もっと西側だった。
「どうしてそんな遠くまで?」
「その、ナオミ様が、下町も見てみたいとおっしゃられて」
「いくらナオミがそう言ったとしても、君は止めるべきだったよ。私が何のために君たちにナオミを任せてると思ってるんだ?ハリーランドだと?よくもそんな所に」
「申し訳ありません!」
 リックはテーブルにぶつける勢いで頭を下げた。
 踏み込もうとするサトルの腕をクラウルが押さえる。
「閣下。落ち着いてください」
「すみません。本当に申し訳ありません」
 サトルは深呼吸した。
「いい。悪いのはナオミだ。君は体を張って彼女を守ってくれたんだろう。感謝するよ」

 サトルは部屋を出て、裏口から公邸へ向かう。
 後ろをクラウルが足早についてくる。
「閣下」
「どうしてすぐに知らせなかった?私の居場所が判らなかった訳じゃないだろう」
「ナオミ様が、仕事の邪魔になってはいけないと、連絡しないでほしいと言われて」
「余計なお世話だ。君らはいつからナオミの使用人になったんだ、バカ者」
「閣下。ナオミ様はショックのご様子で、ですから閣下」
「煩い。判ってる。ナオミは私の女だ。お前に心配されなくてもいい!」
 ミリアが玄関で待っていた。
 タイと上着を投げるように渡し、足を止めずに部屋へ向かう。
「セアラはどうしてる」
 ミリアは慌ててサトルの後を追った。
「はい。部屋におります」
「怪我はないと言ったが、落ち着いているのか?」
「はい」
「それならいい。一週間休みをやるから、ゆっくり休養するように伝えてくれ」
「……イエス、サー」

 ナオミはベッドに潜っていた。
 すぐに話しかけようとしたが、彼女は眠っているようだった。
 少し考えて、手と顔を洗い、うがいをしてからベッドに戻る。
 端に腰かけて見ると、ナオミは眠ってはいなかった。
 そっと目を開けて、遠慮がちにサトルを見つめる。
 サトルは言った。
「ただいま」
「お帰りなさい」
「無事でよかった」
「ごめんなさい。私が行きたいって言ったの。二人は止めたのよ。私が無理を言ったの。だから」
「判ってるよ。悪いのは全部君だね」
「ええ」
「おいで」
 そう言うと、ナオミは毛布をよけてサトルにしがみ付く。
 サトルはそれを抱きしめて言った。
「怖かったろう。無事でよかった」
 ナオミは体を震わせて、静かに泣き始めた。
「この国は完全な楽園じゃないんだよ。危ない場所には近付かないでくれ。心配なんだよ、ナオミ」
「どうして楽園じゃないの」
 ナオミは涙声で呟いた。
「どうしてだって?」
「だって、こんなに良い国なのに」
「住んでいるのは人間だよ。ここが楽園であるわけがない。でも君は安心して暮らせる立場にいるんだ。だからずっと私の傍を離れないで。そうすれば怖いことなんかないんだから」
「私は嫌よ」
「なにがだい」
「みんなが楽園に住んでいなければ意味がないわ」
「そんなのは無理だよ」
「どうして?ここなら、無理じゃないかもしれないのに」
「無理だよ。君は人を信じ過ぎているね。でも思い出してごらん、今まで育ってきた街を。いかに粗悪な街だったか。それを思い出せば、人間の本性はよく判るはずだ」
「ルルは良い国よ」
「良い国だよ。だけど、悪い人間も住んでる。君はここでまずパスポートを盗まれたんだぞ。忘れたのか?悪い人間なんか幾らでもいる。幾らでもわいて出てくる。昨日の善人が、今日には悪人になってるなんてざらにある事だ。でも、それは仕方ないよ。それぞれがみんな、完全な愛なんか持ち合わせていないんだから」
「何も手立てはないの?きっとある筈よ。上手くいくわ。ここなら上手く行くわ」
「ナオミ」
 サトルはナオミの頬の涙を手で拭った。
「もう寝なさい。しばらく出かけちゃいけない。今度は命令だ。セアラにも一週間休みをやった。君もその間は大人しくしていなさい」
「あなたがいない時も?」
「そうだ。まだこんなに震えてるじゃないか。落ち着くまで出かけてはいけない」
「出かけたくても?」
「何処に行きたいの?行くなら私と一緒だ」
「あなたと一緒じゃ、見えない景色もあるのよ」
「ナオミ?」
 ナオミはいっそう泣きだしてしまった。
「ちょっと待ってて。何か飲み物を持ってきてあげよう」
 サトルは立ち上がり、キッチンで酒を探した。
 一つを選んでシェリー・グラスに半分ほど注ぎ、ナオミに持っていく。
 肩を抱いてグラスを持たせた。
「これはお酒なの?」
「ああ。シナモン・パークのジュニエだ」
「ジュニエ」
 ナオミは呟いて、グラスの淵に桜色の唇を近付ける。
「ジンのことだよ。これは甘いタイプだから飲みやすいだろう」
 ナオミは少しずつそれを飲んだ。
 何も言わなかったが、全部飲んでしまったところを見ると美味しかったのだろう。
 彼女の涙の跡をシーツで拭いた。
 涙は止まっていた。
 グラスを受けとる。
「君は疲れてるんだ。もうゆっくり眠りなさい」
 ナオミは素直に横になった。毛布を肩までかけてやる。
「おやすみ」
 額にキスをすると、ナオミは目を閉じた。

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