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宗教や信仰についての雑記 #8

◯言葉による思考

#4で、言葉とは世界を分節化して、そこから己の生存のための道具を作り出すための道具だと書きましたが、言葉による思考も同様だと思います。
思考は便利な道具ですが、ときとして暴走してしまいます。自動車は便利な道具ですが、ブレーキが故障して一旦暴走すると恐ろしい凶器と化してしまうように、思考も一旦暴走すると、その本人を傷つけ苦しめてしまいます。

言葉は世界から個物を分節化して切り出し、それに名前というレッテルを貼り付けるものです。でもそのレッテルは、その個物を表すものであると同時に、共通の性質や特徴に基づき分類して概念化する働きもあります。

そのため、あるものを見て「これは〇〇である」と認識しても、今指し示してい個物そのものよりも、貼り付けた概念に認識が引きずられるという事態が生ずることがあります。

例えば、彼は病人である、障害者である、パレスチナ人である、ユダヤ人である等々。
それぞれ個々の「人」そのものを観ないで、貼り付けられた言葉の概念から勝手な判断を下してしまう、そんなことが多々あるようです。

そうして、本来は互いに浸透し合っている自己と他者とが分断されてしまい、それぞれの内に本来宿っているはずの「実在」を感じられなくなってしまっているように思うのです。

喩えて言えば、言葉の使用はカメラのようなものです。
カメラは現実の風景を、数千万の画素に分解してデジタル信号として記録し、それをディスプレイ上で再構成して映像を映し出します。
言葉による伝達や思考もそれと同じように、現実をいくつもの単語に分解して、それを頭の中で再構成します。

でも、ディスプレイに映し出された映像は現実ではありません。限られたフレームの中の二次元の画像に過ぎません。
頭の中で言葉を再構成たものもまた、現実ではなく、限られたフレーム(枠組み)の中でのモデルでしかありません。
その自覚が薄くなり、頭の中のモデルと現実とを混同し始めるのが、思考の暴走なのだと思います。

そして、そんな思考が自分自身についてである場合はどうか、それは次回にしたいと思います。

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