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宗教や信仰についての雑記 #9

◯「私」についての思考

誰もが自分について、自己イメージというようなものを持っていると思います。
でも「私はこういう人間だ」と考えた時点で、その「私」はすでに自分ではありません。なぜならその「私」を観ているもう一人の私がいるからです。そのとき観られているほうの私は虚像です。
そして「その観ている私がほんとうの私だ」と思ったところでまた、「その観ている私」を観ている私が現れます。

これは無限遡及です。
ほんとうの自分を求めれば求めるほど、それはどんどん後退してゆき、決して追いつけません。
自分は言葉では捉えられません。
ほんとうの自分、この「私」は一人称であり、思考の主体であるのですから、思考の対象となり客体となった「私」は張りぼてのような虚像と化してしまうからです。

そして「私」は、現実の中にいる限り、常にどこかにいて何かをしています。それらから切り離された抽象的な「私」は、現実には存在しません。
例えば、「私は部屋を掃除している」という文で表される状況があったとして、その状況の中にいる限りは、部屋を掃除している私以外の私は存在しません。部屋を掃除しているその同じ瞬間に、台所で料理をしている私が存在することなどあり得ないからです。
その状況の中では、私と部屋と掃除とはある意味一体なのです。それぞれが互いに浸透し合っているとも言えるでしょう。

ですが、言葉による思考や伝達は、状況を単語に分解してしまいます。そこに何ものとも関わらない抽象的な「私」、虚像としての「私」が生ずる余地を与えてしまうのです。
そうして私たちは虚像の「私」に、認識や感情までをも引きずられてしまいます。

エックハルト・トールが、思考はほんとうの自分ではない、と言うときの思考とは、このような虚像の「私」を生じさせてしまうような思考のことを指しているように思えます。
言い方を変えれば、「私」が道具である思考を使用する主体とならないような思考ですね。

自己とは言葉では捉えられないものであり、その起源を遡れば、太古の恒星の核融合反応や、さらに言えば、宇宙の誕生までに至るものだとすると、何だかそれは、姿形のない宗教的「実在」によく似ているようにも思えます。
自分を取り巻く世界や己自身の内にその「実在」を感じ取るということは、そういうことなのかもしれません。

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