『ポストマン・ウォー』第19話:それに触るな!
『ポストマン・ウォー』第19話:それに触るな!
七月になろうとしていた。
うだるような暑さが続き、日中、外に出るのはほとんど自殺行為にも思え、憚られた。
中谷幸平と遠藤桃子の関係はまだ続いていて、週末に中谷幸平が電話で呼び出すと、遠藤桃子は他のどんな予定があっても調整して、わざわざM町にまで来てくれるのであった。二人で他のエリアに出かけるということはない。
M町の駅前のレストランか居酒屋で、夕食をとり、ほどよく酒を飲んだ後に、中谷幸平の家で一晩を過ごし、翌日の昼頃には別れるということを繰り返した。お互いに「付き合おう」などと口にすることもなかった。それを口に出してしまえば、今の関係が終わってしまうのではないかと、遠藤桃子が恐れているのではないかと中谷幸平には見えた。
その日も、店で飲む酒はほどほどに、中谷幸平の家に行き、ベットで戯れあった。中谷幸平はどこかでマンネリを感じていたが、遠藤桃子は一緒にいるだけで嬉しいというような感じであった。中谷幸平はトランクス一枚の半裸で、ベッド脇に座りながら煙草を味わう。夏ということもあり、音楽はずっとボブマリーをかけている。
「そういえばさ、桃子は夏休みどうするの?」
中谷幸平は急に思いついたことを訊く。
「え、何も考えてなかった。実家帰るかも」
「実家? そうか、田舎どこっだっけ?」
「大阪だよ」
遠藤桃子は背中を中谷幸平に向けながら下着のホックを留めながら答える。
「え、そうなの? 少しもそんな感じしなかったから、てっきりこっちの人かと思ってた」
「だって、中谷君、私のこと何も聞いてくれないじゃん」
遠藤桃子は少し膨れっ面をしながらすり寄ってきて、中谷幸平の太腿を枕に下から顔を覗きこんでくる。中谷幸平はごめんごめんと言いながら、上から遠藤桃子の額に口づけをする。傍から見れば、二人のじゃれ合う姿はカップルにしか見えないだろう。
「夏休みにさ、旅行とか行きたくない?」
煙草の火を灰皿の底で揉み消しながら、中谷幸平はおもむろに訊ねる。すると遠藤桃子は、中谷幸平の口からそんな言葉が出てくるとは思っても見なかったというように驚いた顔をする。
「そういうのやだ?」
中谷幸平が怪訝そうに訊くと、遠藤桃子は笑みを浮かべて、首を横に振る。
「それで、どこ行くの?」
遠藤桃子は目を輝かせながら、夏だから海?水着買わないとな、温泉もいいし、美味しいものも食べたいとか独り言のように言う。
「そうだな、俺は、熊野に行きたい」
「熊野? どうしてまた?」
遠藤桃子は、自分が想像していたものとは違っていたのか、少しがっかりしたような口調で言う。
「熊野っていう場所はさ、昔から黄泉の国、聖なる異界とされていて、熊野信仰っていうのがあるくらい」
「熊野古道って有名だよね」
「そう。その熊野古道を抜けると、後醍醐天皇が立ち上げた南朝、吉野にも繋がっていて。異形の王と恐れられていた後醍醐天皇にも、興味があるんだよね」
「中谷君そんな趣味があったんだ」
「というのは後付けで、もともと好きな小説家がいて、その作家の故郷が、和歌山なんだ」
「へー、和歌山か」
遠藤桃子は中谷幸平の部屋に積まれている本を見回す。中谷幸平が小説を読むのは分かっていたが、本人の口から言われるのは初めてのことであった
「実家からあまりにも近いから、そんな風に見たことなかった」
「紀伊半島がその小説家の作品舞台でさ。熊野がよく出てくるんだ」
「なんていう、作家なの?」
「桃子は知ってるかな。中上健次」
「中谷君、小説読むんだね。昔から?」
「そう、学生の頃からずっと」
遠藤桃子は部屋の片隅に積まれていた本に手を伸ばしていて「中上健次ってこれね?」と訊いてくる。その馴れ馴れしさに、中谷幸平は少し苛立ってしまい「ああ、そうだよ」とぶっきらぼうに返事をする。
遠藤桃子が何かを訊ねたそうにしている態度を無視して、少し酒を飲もうと、冷蔵庫の中を漁りに行った。
気を許すと、女はすぐに踏み込もうとしてくる。そんなことをぶつくさ思いながら、中谷幸平はビールにするか、酎ハイにするかを迷う。
すると突然「これ何?」と遠藤桃子が声をあげる。
遠藤桃子は積まれていた本やノートの隙間から、何かを見つけたようで、手に一枚の紙切れを持ち、中谷幸平に見せてきた。
『K町におけるモンゴル人と中国人の争い。G町にも広がっている。ギャング抗争が起きている。その抗争に巻き込まれていく、郵便局員。原稿用紙四〇〇枚以内におさめる』
遠藤桃子は紙切れにあったメモ書きを、声に出して読み上げるのであった。
「小説? 中谷君、小説とか書いているの?」
「それに触るな!」
中谷幸平は冷蔵庫の扉を大きな音を立てて閉め、声を荒げた。
「え、ごめん」
遠藤桃子は突然豹変した中谷幸平の口調に動揺し、持っていた紙切れを元あるところに戻すと、肩を狭めながら後ずさりした。
「今日は機嫌が悪かったみたい。私、帰るよ」と言い、急いで服を着替えた。
「そうだな、帰ってくれ」中谷幸平はきつい口調で言い放つ。顔を見るだけでも不愉快だと言わんばかりに遠藤桃子に背を向けると、窓際に行き、苛立ちながらビールを流し込んだ。
遠藤桃子は何も言い返すことなくその場を立ち去った。玄関のドアを閉める音が大きく響いた。中谷幸平は舌打ちを鳴らして、髪の毛を掻き毟った。
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