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『ポストマン・ウォー』第17話:謝罪


『ポストマン・ウォー』第17話:謝罪


「まずいことになった」
 
 休憩室で矢部さんは頭を抱えていた。先に休憩に入っていた矢部さんは、目の前の弁当に箸もつけず、携帯電話を見ながらぼやくように言った。中谷幸平も近所のコンビニで買った唐揚げ弁当をぶら下げ、やっと一息つけると腰を降ろした。

「どうしたんすか」気になった中谷幸平が矢部さんに声をかける。ずっと携帯を凝視していた矢部さんが、チラと中谷幸平の方を見て、何か言いたげにしている。

「なんすか、言ってくださいよ」

 もったいぶった様子の矢部さんがもどかしく、中谷幸平が問い質すと、矢部さんは携帯電話をパチンと音を立てて折り畳み。テーブルに置く。

「噂になってるよ」

「何がですか?」

 中谷幸平は、矢部さんが言いたいことが何となくわかっていた。篠崎絵里とのことだと思い、あえて素っ頓狂に振舞ってみたが、矢部さんの口から出てきたのは予想通りのものであった。

「中谷君、やらかしたな」

「何をですか」中谷幸平はまだ認めようとしない。

「支部大会だよ。目撃者が五島さんだからね。言い逃れはできないぞ」
 
 五島さんという固有名が出たことで、中谷幸平は観念した。買ってきた弁当に、恐る恐る手を付けながら、矢部さんの次の言葉を待った。

「中谷君って、なかなかアグレッシブな人間だったんだね」

「すみません、いろいろ取り乱しました」

 中谷幸平はとぼけるのを諦めて、自分の身に起きたことを話した。

「よりによってねえ」

「どういう意味ですか?」

「絵里さんだろ、相手は」矢部さんは中谷幸平を睨みつける。

「そうです」中谷幸平は頷く。

「絵里さんは、江原さんの元カノだよ」

「え?」中谷幸平の箸が止まる。

「中谷君が支部大会で手を出してしまったのは、江原さんの元カノ。モートーカーノー」矢部さんは元カノのところだけ強調して言う。額に手を当て、大げさな困り顔を作るので、どこまで本気にしてよいものかわからなかった。

「その話が出回ってから大変だよ。倉地さんと吉田さん、毎晩江原さんに呼び出されているらしい」

「元カノ・・・」

 中谷幸平はそう返すのが精一杯であった。

「あの女は気をつけろ」

 あの日、五島さんに忠告された言葉の意味がわかり、頭を抱える。
 
 ただ、元カノということであれば、問題になる理由は何だろうかという疑念もあった。

「江原さんはさ、絵里さんと五年間も同棲していたのよ。江原さんのせいで別れたみたいだけど、江原さんは今も未練たらたらなのよ」

「すみません、そんなことも知らずに」

 中谷幸平はようやく状況を理解した。買ってきた唐揚げ弁当には、少しも手をつけられずにいる。

「今日俺も呼び出されているんだよね」

「呼び出されている?」

「江原さんからだよ」

 矢部さんはそう言いながら、自分の弁当の米を頬張り、何か考えるようにゆっくりと咀嚼したあと、お茶を飲む。中谷幸平も何を話してよいかわからず、とりあえ弁当を食べることにする。しばらく互いに、目の前の弁当を食べることに専念していたが、食べ終わる頃に矢部さんが口を開いた。

「中谷君、今日付き合ってよ。江原さんに謝りにいこう」
 
 仕事を終え、真っ先に向かったのはなぜかモンゴルパブ『カササギ』であった。ここ数日、毎日のように江原さんが来ているのだという。江原さんの機嫌を少しでも直そうと、倉地さんと吉田さんも毎晩付き合っているそうだ。理由をつけて遊びたいだけなのでは、と中谷幸平は思ったが、そこは言葉にすることを留めた。

「もともと『カササギ』は江原さんのホームタウンなんだよ。今でこそ吉田さんが入り浸っているけど、吉田さんに遊びを教えたのは江原さん」

 矢部さんはそう説明しながら階段を上がっていく。足取りは重い。
 
 矢部さんがドアを開けると、独特な異国の匂いがまた鼻についた。食べるものが違うから、民族ごとに匂いも違う、というのはどこかで聞いたことがある。一度目もそうだったが、その匂いに慣れるのには少し時間がかかる。

「アラ、ヤベッチ、ナカタニサン、イラッシャイ。豪サントカミンナ来テル」
 
 国際便をよく出しにくるミサが出迎えてくれた。

「こんちは」矢部さんがでれっとした顔で会釈する。

「マリモイルヨ」ミサはそう言って中谷幸平にウインクする。そんなことは実はどうでもよかった。まずは江原さんに、どんな顔で会うべきかそれだけが気がかりだった。店に来る途中、第一声まずは謝ったほうがよい、ということを矢部さんが教えてくれた。
 
 店内を案内されると、客は倉地さんたちだけということがわかった。店内の一番奥にある席を陣取り、一人の男を囲うようにして、倉地さん吉田さん、それぞれの女性らが座っていた。中央にいるその男性が、江原さんということがわかった。公務員らしからぬ、ちゃらついた倉地さんたちの姿を見ているから、その大将である江原さんとはどんな人だろうと思い巡らせていたが、想像と違い、どこにでもいそうな中年男性という感じであった。

「こっちこっち」江原さんたちは矢部さんに気付くと、笑いながら手招きする。

「おお、中谷君も来たのね」倉地さんが声をあげる。
 
 中谷幸平は江原さんと目があった。「こいつが中谷か」というような目で見られている気がした。矢部さんは「ちわす」と言いながら席に座ろうとする。中谷幸平は席につかず、江原さんの前に立つと、矢部さんに言われた通り「初めまして中谷と言います」と、まずは挨拶をし、江原さんの反応を伺った。

「君が中谷君か」江原さんはそう言ってグラスを口に運ぶ。

「このたびは申し訳ございませんでした」

 中谷幸平は深々と頭を下げ、謝辞を伝えた。
 
 すると、倉地さん吉田さんたちから笑いが起きた。

「おいおい、急にどうしたんだよ」

「あ、いや、この前」

 中谷幸平はどう説明してもよいかわからず言葉に詰まった。矢部さんがフォローしてくれるだろうと思い、矢部さんの方を見たが、矢部さんはすっとぼけたような顔をして煙草を吹かしている。

「なんだ、矢部に何か吹き込まれたのか?」吉田さんは笑いを堪えながら言う。

「まあまあ、まずは座って酒を飲もうや。中谷君、江原さんとは初対面だろう」

 倉地さんはそう言うと、中谷幸平を座らせて、隣に座っていた女性に、マリを呼んで。それからビール二つと手際よく指示する。
 
 マリが中谷幸平の隣にやってきて、同時にボーイがビールを運んできた。 
 
 江原さんの掛け声で乾杯をする。

「中谷君、支部大会も来てくれたみたいで。期待の組合員です」

 倉地さんが、江原さんの顔を伺いながら、中谷幸平のことを改めて紹介する。
 
 支部大会と聞いて、篠崎絵里の話を切り出されるかと思ったが、そうはならず、江原さんが中心となって、郵政民営化はいかに愚かなことか、小泉首相は郵政の力を甘く見過ぎているというような話になった。
 
 江原さんの話しは、小難しいがユーモアもあり、大人の余裕と包容感がある。大将と言われているのが、少しわかる気がした。
 
 しばらく、そんなまじめな話が続き、中谷幸平はどういう展開かわからず、矢部さんの方を見るが、矢部さんは特に気に留める様子もなく、隣の女と話し込んでいる。もしかしたら、矢部さんは自分をからかうために、わざと大層な話にしていただけなのではという思いが過った。篠崎絵里が、江原さんの元カノというのもでっち上げなのではないか。だが、そのことを江原さんに確かめるわけにもいかないし、倉地さんたちも、そこには何も触れるなというように振舞っているだけなのかもしれない。
 
 このまま何も起きないのでは。そう感じさせる時間が続いた。
 
 江原さんがトイレ、と言って席を空けた時であった。

「いやあ、中谷君もやるよなあ」

 倉地さんが、唐突に話しかけてきた。まさかこのタイミングでと思い中谷幸平は、はっとなる。

「支部大会の日、絵里ちゃんといちゃついていたんだって?」

 倉地さんが少しにやついた顔で言うと、吉田さんや矢部さんも女たちとの話を中断し、中谷幸平の方を振り返る。

「矢部に謝罪しろって言われたんだと思うけどさ、江原さんの前で絵里ちゃんの件は絶対口にするなよ。あの人プライド高いからさ。後輩からそんなこと謝罪されたら、何とも思ってないよと言うに決まっているけど、何とも思わないわけないんだ」

 倉地さんのその言葉で、やはり、事実であることを知り、中谷幸平は消沈する。

「お前も最初に謝罪とか変なことさせるなよ」

 吉田さんが矢部さんに向かって声を強める。

「すみません、でも江原さん、怒っていますよね」矢部さんが訊く。

「怒っているとか、そんな小さな人じゃないよ」

「中谷君、組合内でのやんちゃは気をつけた方がいいぞ」と倉地さん。

「お前が言うな」と吉田さんの突っ込みが入り、小さな笑いが起こる。
 
 江原さんがトイレから戻ってくると、皆は何事もなかったかのように、また隣の女らとの会話を始めた。

「中谷君飲んでいるかい?」江原さんが、中谷幸平に声をかける。

「はい、楽しませてもらっています」

「君は付き合いがよいし、先輩にも可愛がられているし、いい人材だな」

「ありがとうございます」

「組合活動よろしく頼むな」江原さんはそう言って、焼酎グラスを掲げる。

「はい、頑張ります」

 中谷幸平は江原さんが差し出したグラスに、自分のグラスを当て、精一杯の笑みを浮かべて答えた。


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