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『ポストマン・ウォー』第36話:おれ、やっちまったよ


『ポストマン・ウォー』第36話:おれ、やっちまったよ


 大通りに出て、G町駅の方面に向かっている時に、サイレンを鳴らして、猛スピードで駆け抜けるパトカー数台とすれ違った。
 
 さすがに通報されたか。中谷幸平は少しでも早く現場を離れたいという思いを抑え、冷静に何事もなかったように自転車を漕ぎ、ドルジさんと落ち合う約束していた『カササギ』を目指す。
 
 頭の中ではずっと刺激的な映像がグルグルと回っていた。
 
 人生で初めて人の顔を撃ち抜いてしまった。
 
 その光景が、フラッシュバックのように蘇る。それは一瞬の出来事であった。何も考えていなかった。ただ、勝手に体が動いていた。
 
 体が、自分のものではないかのようであった。小学生の時から、大した運動神経もなく、喧嘩なんてろくにしたことがない。貧弱で、武闘とは無縁。どちらかといえば、生物的には「弱い人間」でしかない自分が、一体、何を覚醒させたらあんなことができるのか。
 
 人間は追い詰められると、それまで脳が制御していた人間本来が持つ能力のリミッターがはずれ、見せたことがないような力を発揮するのだという。火事場のくそ力というのは、生物学的にも理のあることなのだと、どこかの漫画で読んだことがある。

 カフェインの錠剤が効きすぎて、脳がそうさせているのか。人の頭が砕け散るという、余りに非現実的な光景を目の前にしたにも関わらず、どこか他人事のような感覚で受け止めている。興奮が覚めたのちに、きっとそれは悪夢のように蘇り、自分が持っている良心や道徳に訴えかけてくることになるのかもしれない。

 それにしても、こんなにも物事がスムーズに進んでよいものだろうか。
 
 それくらい、ブルーウルフの連中、ドルジさんたちの作戦とシミュレーションは精緻だったというのか。そして、この後の展開を一体どうしようとしているのか。
 
 自分のミッションはここまで。それ以降のことはすでに準備しているとドルジさんは言っていた。自分がドルジさんたちに対して起こしたことはチャラになり、自分はまた何事もなく日常に戻ることだろう。
 
 ガード下をくぐり、いつもの『カササギ』までもう少しであった。だが、何か様子がおかしかった。
 
 最初、頭がテンパっているせいで、着いた場所を間違えているのかと思った。
 
 いつも店の前に置いてあるスタンド看板がないのだ。しかし、隣の建物のスナックはいつも通り営業中のようだ。いつも見ている場所で問題ない。
 
 自転車から降り、中谷幸平は走るようにして『カササギ』の店の前に立った。よく見ると扉の前にかけられているはずの「OPEN」の札もない。
 
 まさか、店をやめた? いなくなった? 騙された? さまざまな感情が頭を過った。
 
 すると突然、体内の奥底からこみ上げてくるように吐気を催し、中谷幸平は近くの電信柱に駆け寄ると、胃から出てくる異物を吐き出した。酸味の混じった胃の吐しゃ物が、止めどなく溢れ出てくる。緊張が解けたからか、不安な感情が押し寄せたからか。
 
 すべて出し切ったあと、背中で呼吸を整えていると、後ろから声をかける者があり、涙で滲んだ目で振り返ると、マリが心配そうな目で中谷幸平を覗きこんでいた。
 
 大掛かりに設置されていたカラオケ機器も、スピーカーもステージも、客用のソファもアンティーク風のグラス棚も、ボトルが並べられたカウンターも、すべて取っ払われていて、『カササギ』は、コンクリートがむき出しになった空き家となっていた。
 
 中谷幸平は床に座り込み、マリに背中をさすってもらっていた。
 
 マリは中谷幸平が戻ってくるのを待っていたといい、コンビニの袋から缶ビールを取り出し、中谷幸平に手渡す。

「どういうつもりだ。さっきまでゲロしてた人間にアルコールって」

「乾杯デスヨ。中谷サン。イエロードラゴンヤッタンデショ。中谷サンアタシタチトノ約束守ッテクレタ」
 
 中谷幸平は首を振り、あの部屋で風呂に入っていた男は撃ち殺したが、それがイエロードラゴンかどうかは確信がもてない、と説明する。
 
 するとマリは「大丈夫、今、手下タチ、騒イデイテ、中国ノオ店中止ニナッテル。ボスガヤラレタッテ騒イデルッテ、情報届イテル」

「そうなのか」中谷幸平は自分が実行したことにミスがなかったと思い安堵を覚える。
 
 マリに手渡された缶ビールを開け、マリも缶ビールを手に取り乾杯する。

「でも、これどういうこと?」と中谷幸平がガランドウになった『カササギ』を見渡しながら訊くと「アタシタチ。シバラクK町ニ行ク。ボスノ命令。シバラクソッチデ様子見守ルコトニスル」

「そんな動きして大丈夫なのか?中国マフィアも何か疑うんじゃないか?」

「中谷サンハ心配シナクテイイ。ドルジガ言ッテイタタヨウニ、全部計画通りダカラ」

「もし俺が誰かに目撃されていて、警察が来たりとかしたら?」

 中谷幸平は現場で佐藤さんと鉢合わせしてしまったことを思いだしたが、マリにあえてそのことを伝えなかった。

「マンガイチソウナッテモ、中谷サンハ、何モ知ラナイト、言イ続ケテ。中谷サンガ疑ワレルコトハ絶対ナイ。コレハ、マフィア同士ノ争イ。ダカラ、モウ中谷サンハ、コノコトハ忘レテ、イツモ通リニ仕事ヲシテイレバ大丈夫」

「人を殺しといて、いつも通りなんてできるわけないだろ」
 
 中谷幸平は苦笑しながらマリを見る。

 マリは首を横に小さく振り、缶ビールを床に置くと、突然両手で中谷幸平を抱き寄せた。

「中谷サン、アナタハモウ、凄イ人。英雄ヨ。少シ寂シクナルケド、アタシタチ、スグニG町戻ッテクル。落チ着イタラ、オ祝イヨ。ブルーウルフも、ロシアノ仲間モミンナ喜ンデル、中谷サンヲリスペクトシテル」
 
 マリの腕に抱かれ、中谷幸平はマリの胸元にもたれかかる。
 
 すると中谷幸平の体は小刻みに揺れ、不意に涙がこみ上げてくる。人を殺めてしまったことの恐怖と、生きたままここにいる安堵。そんな感情が入り混じっての涙だったのだろう。

 マリは中谷幸平の背中をさすり「怖カッタネ、ヨクヤッタ、ヨクヤッタ」と子守唄のように唱える。

「人を殺しちまった、殺しちまった」
 
 そう言葉にすると余計に涙が出てきた。止めどなく溢れ出てくる。

「大丈夫、中谷サン。アナタノヤッタコトハ、何人モノ平和ノタメ。イエロードラゴン、死ンダ。デモ、ソレニヨッテ救ワレル者、モットモットアル。ダカラ、中谷サンノヤッタコト、自分デ責メルコトナイ」
 
 中谷幸平はマリの言葉に耳を傾けながら、おいおいと声をあげて嗚咽する。
 
 マリは、中谷幸平の顔を両掌で挟むと、顔を上げさせ、中谷幸平に唇を重ねてきた。

「え?」

 中谷幸平は思わずマリを見返す。

「モウシバラク会エナイ。アタシ寂シイ」

「そういえばこれ返さないと」

 中谷幸平は、涙を右腕で拭ったあと、ジャケットの内ポケットから、ドルジさんの拳銃を取り出し、マリの目の前に差し出す。

「ソコニ置イトイテ」

 マリはにっこりと笑うと、中谷幸平の唇を噛むように吸い上げた。

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