わたしが文学青年だった頃~90年代0年代回想録~

私は先に、今なぜスピノザが広く一般層にまで読まれ、ちょっとしたブームのようにさえなっているのかについて書いてみた。

この記事を書いているうちに、私が学生だった時期、1990年代から、大学を卒業し社会人となって直面することとなった、アメリカでの同時多発テロが起きた2001年までについてを、もう少し深掘りしてみたくなった。

日本でのスピノザブームは、ここ最近の出来事である。少なくとも90年代においては、スピノザ研究者やコアな哲学好きなどを除いては、あくまで柄谷行人を介してのスピノザ、あるいはドゥルーズを介してのスピノザ、アルチュセールを介してのスピノザに触れるという体験ではなかっただろうか。私が通っていた学部では幅広く哲学や倫理学、政治思想史などを学ぶことができたが、バルーフ・デ・スピノザ、その名が大学教授の口から出ることは皆無といってよかった。哲学史のメインストリームは、プラトン、アリストテレス、デカルト、カント、ハイデッガーであり、政治思想であればホッブズ、ロック、ルソーだったのだ。

アカデミズム以外の日本の言論空間で、圧倒的な存在感を放っていたのは、柄谷行人であり、浅田彰であり、蓮見重彦であった。中でも柄谷行人は、早くからスピノザを援用しての思想を展開していた。

しかし、言論空間においては、柄谷行人の言説自体が注目されていたのであって、スピノザだけがとりわけフォーカスされていたというわけではない。柄谷自身は、マルクスを中心に、デカルト、ウィトゲンシュタイン、クリプキ、カント、キルケゴール、ニーチェといったように援用する哲学者は多義にわたっていた。スピノザもまたその一人でしかなかったと言ってよいだろう。

90年代はバブル崩壊後の「就職氷河期」にあたる。あるいは「ロストジェネレーション世代」とも呼ばれているようだ。事実、私は就職活動で大変苦しい思いをした。受験勉強を経て世間でいわれる有名大学に入ることはできたのだが、かつて機能していたとされる「学歴でパス」という世界ではなくなっていた。

一方で、新卒から超高給で、エリート街道まっしぐらという者もたくさんいた。彼らは一様に、外資系証券会社などへの就職をはたし、世界市場においてアメリカ独り勝ちのグローバリゼーションの流れを謳歌していた。マーティン・スコセッシ監督の『ウルフ・オブ・ウォールストリート』がまさしくその時代のアメリカ金融市場における「覇者たち」の姿と雰囲気を余すことなく描いているといえる。私の友人も何人かが外資企業に就職していたが、同じ20代の社会人であるはずなのに、信じられないくらいに煌びやかな生活を送っていた。

1999年から2000年あたりくらいから、「勝ち組」と「負け組」、「持つ者」と「持たざる者」というようなキャッチコピーが流布するようになっていたと思われる。今もなお多いが、勝ち組になるためにはどうすればよいか? 成功を掴むには? といった類の自己啓発本が書店の店頭で積み上げられていた。

もっともそのような時代の空気は、私が中学生くらいの頃からあったような気もする。それゆえに、そういった時代の価値観を信じていた親のすすめによって受験勉強をし、進学しているのだから。

では、その時代、一般的に支配的だった価値観とはなんであったか。こんな感じである。

人生は可能性に満ち溢れている。家庭でも、学校でも、塾でもそう教えられてきた。テレビのコマーシャル、トレンディードラマ。凡庸な小説、凡庸な漫画、映画でも、エンディングシーンで唱えられるのはそんなことばかりであった。可能性という名の「目的」への世界。そう、われわれは「最高の人生を送ろう」という、暗黙の了解となっていた「目的の王国」に向かって生きていた。

最高の未来、最高の選択、その可能性をめぐって、この社会のお金はまわっていた。いい男。いい女。いい夫婦。いい家族。いい住まい。いい車。いい食事。いい衣服。いいレジャー。それらを実現するためのいい就職。いい大学、いい高校、いい中学、いい進学塾。そしていい幼少教育。「最高」に向けた可能性を掴むためには、早ければ早いほうがよい・・・といったように。

弱肉強食的かつ目的主義的な世界観。この時代の空気に対し、柄谷行人は前者の自由主義経済システム、資本主義の構造をマルクスやカントで、目的・意味に取りつかれた社会の価値観を「ライプニッツ症候群」などと名付け鋭く批判していた。

しかし、世界においても、こと日本においても、格差社会の進行は深刻であった。ペンと言葉だけでは現実を変えることはできない、と考えた柄谷行人は、2000年に自らが組織する社会運動、New Associationist Movement(ニュー アソシエーショニスト ムーブメント、略称:NAM〈ナム〉)を立ち上げることになる。
NAMは、日本発の資本と国家への対抗運動。柄谷行人が「当時雑誌(『群像』)に連載した『トランスクリティークーカントとマルクス』で提示した、カントとマルクスの総合、アナーキズムとマルクス主義の総合を、実践的レベルで追求するための試み」とある(Wikipediaより)。

NAMはその後、2年くらいで解散することになるのだが、当時衝撃だったのは、柄谷行人が帝国的な支配を強める資本と国家への対抗を提唱し始めたその翌年、アメリカ同時多発テロ事件が起きたのだ。アメリカの一国支配主義に対し、さまざまなところで反発、反作用が起きていた。暴力的な手段による解決というのがテロであり、この事件によってはっきりと顕在化された。

その頃、私はすでに大学を卒業し、国家公務員として就職していたのだが、その事件の映像を職場で目の当たりにすることになったのである。

柄谷行人は実践としての活動組織を立ち上げると同時期に「文学の終焉」的なことも口にしていた(『近代文学の終わり(2005年)』)が、まさに、言葉による戦いを自負していたはずの文学が、それまで文芸批評という形で文学の最前線にいた人間に突然突き放され、その無力さに打ちひしがれた瞬間でもあった。

とはいえ正直に話せば、当時の私は、確かに柄谷行人の思想に傾倒はしていたものの、彼が提唱していた「資本主義と国家を揚棄するための運動」には、今一つ踏み込めないのも事実であった。だからこそ、そのような思想に触れておきながら、就職のために「国家公務員」という道を選んでしまった(現在は民間企業に勤めている)。

そのことに、私は自分自身の矛盾に苦しんでいた、というのがあった。国家を批判する思想に傾倒していながら、国家公務員であるという矛盾に。その葛藤だけが原因というわけではないが、私はわずか3年で公務員の道を捨てた。親は呆れていたが、自分自身に嘘をつけない。かといって、打倒国家、と(今思えば)妄信的に声高に叫ぶのも、どこか違う。

私のアイデンティは、やはり「政治」ではなく、柄谷が終わりと告げた「文学」にあったのだと、今になっても改めて思う。
そう、私はたんに、文学青年だったのである。柄谷行人よりも、中上健次にまず最初に打ちのめされ、未熟だった自己を形成していく過程において、日本文学や世界文学に熱狂し、文学とは双子の私生児である映画(by中上)にも夢中になった。

学生の頃から小説を書いていて、いつかは作家になりたいと考えていた私は、柄谷行人が唱える「実践」と、終わりを告げられた「文学」の狭間で揺れ動いていた。

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中上健次以降、彼の系譜の中にある作家たち、たとえば阿部和重のような人は、まさに文学の土台が揺れ動くどころか、崩れかけているというような状況に直面していたのではないだろうか。阿部和重もまた群像新人賞受賞でデビューし、蓮見重彦や柄谷行人的言説空間の影響下から出現した作家である。

柄谷が主催する『批評空間』にも「プラスティック・ソウル」を連載していた。しかし、彼は柄谷が関心を向けていた「運動」のようなものにはいかなかった。そのことは、阿部和重が政治に無関心であった、などとは直ちにいえない。代わりに彼は、過剰なまでに「小説」を書くことで、政治的なものに応答していたのだといえる。

同時多発テロがあった時期には、大江健三郎を意識した政治的小説といえる『ニッポニアニッポン(2001年・新潮社)』を。そして中上健次のサーガ影響下により開始された神町サーガ『シンセミア(2003年・朝日新聞社)』を。そして2000年代の最高傑作(と個人的に思っている)『ピストルズ(2010年・講談社)』を。その間に『グランドフィナーレ(2005年・講談社)』『ミステリアス・セッティング(2006年・朝日新聞社)』と、立て続けに、「世界情勢」「日本における歴史的な出来事」とリンクした、中編ないしは大長編を世に放っているのだ。

これもまた、一つの「実践」である、とでもいうかのように。

「中上健次以後」をいかに実践するかというまことに重大な課題だ」と阿部和重本人も公言しているが、この時代においての阿部和重の過剰なまでの創作活動は、彼自身が「日本文学」の最後の砦を、さながらセルバンテスの「ドン・キホーテ」ばりに自覚し格闘することからくる、とてつもない「孤独感」と「焦燥」の裏返しではなかったか、とさえ思えてしまうのだ。

「文学青年」としてあった私自身は、中上健次以降、阿部和重のような存在があることで、本当に救われたような気持になっている。おこがましいが、同時代を生きる、同世代の人間であるということもそうだし、「あらゆる状況に応じて書くとはいかなることか」を、阿部和重はその創作を通じて常に教えてくれる指針とさえなっているからだ。

『ピストルズ』以降も、その創作活動は衰えることはない。伊坂幸太郎との合作『キャプテンサンダーボルト(2014年文藝春秋)』、神町サーガ三部作のラスト、これもまた傑作としかいいようがない『Orga(ni)sm オーガニズム(2019年文藝春秋)』、近年でも極めて「政治的な」小説、『ブラック・チェンバー・ミュージック(2021年・毎日新聞出版)』の爽快さは記憶に新しい。

蛇足ではあるが、阿部和重の妻である、川上未映子もまた私と同世代であり、阿部和重と同様、書くことで「世界を問う」実践を遂行しており、『黄色い家』という「90年代」を舞台にした衝撃的な作品を世に放っている。



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