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鬼滅の刃と手裏剣

漫画、アニメが社会現象となった鬼滅の刃だが、私だけでなく多くの手裏剣術稽古者がこれを見て手裏剣と結び付けたのではないだろうか。
手裏剣術を稽古している人間としての視点でこの作品を見てみようと思う。

主人公の炭治郎は物語序盤から「投擲」を多用していた。
斧に刀、様々なものを投げつけてそれが大きな決め手となり状況を打破したり、困難な場面を切り開くきっかけとしていった。
手裏剣という言葉が示す範囲は広い。小さい金属の棒のみならず、状況を打破するために投げつけて使うものすべてが「手裏剣」なのだ。斧も刀も手裏剣だし、粉や砂、水などの液体ですら広義では手裏剣と呼ぶ。
斧を投げることは現在では立派なスポーツもしくはレジャーとして認識されている。日本にも数は少ないが楽しめる施設はあるし、海外では非常に人気がある。
刀に関しては剣道では竹刀を投げることは反則だから競技やスポーツではやらないことだが、剣術や古武道の世界では裏芸として稽古されているところもある。ただし、あくまで裏芸である。日本人は刀を命のように扱い、時には神聖視する部分があり、それを投げつけることは表向きいいことではないし褒められたものではない。しかし、私が学んだ武道では刀を投げつけることもある。理由としては生きるためだ。
「命のようなものであり命ではない、だから生き延びるために刀を放せ」と教えられた。
ちなみに、もし刀を投げる練習をするのであれば一番最初に壊れるのは刀身ではなく拵えだ。的に刺さった衝撃もさることながら落下の衝撃が大きい。下に緩衝材になりうるものを敷き詰めて練習をしないとあっという間に拵えが壊れるので絶対に注意が必要である。

ここまでは主人公、炭治郎の投擲に関して広義での手裏剣を当てはめてみたが、ここからはもう一つ別の視点で考察したい。
主人公は最初の修行を経て「隙の糸」という能力のようなものを身に着けた。これは自分の刃から相手の急所や弱点へと繋がる糸でどうやら鬼滅の刃の世界において共通して認識されているものではなく主人公だけが認識しているもののようである。そして「匂い」をきっかけとして本人の目に見える形で具現化していると読み取れる。視覚だけでなく嗅覚が発動条件に組み込まれている。嗅覚をファクターにしているのは鬼滅の刃において炭治郎は並外れて嗅覚が鋭いからだろう。私は細かい描写こそないもののこの「隙の糸」は嗅覚や視覚以外の五感のすべてをフル活用した結果として目に見えているものと考える。昔から第六感と言われてきたものの正体もこれではないだろうか。視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚、これらの感覚を総動員した結果得られた情報を総合して使うことが第六感であり、それが具現化されたものが隙の糸ではないかと考えている。
なぜこの隙の糸が手裏剣と関係するかというと、手裏剣を稽古しているとこの糸のようなものを感じる瞬間があるのだ。
もちろん対人で手裏剣を使用したりなどしない。
的に対して、明確な目的を定めてそこに剣を飛ばすように努めていると、ごくまれに自分の手裏剣と的とが見えない糸で結ばれるような感覚を得られることがある。その糸が切っ先に結ばれているという人もいれば剣尾に結ばれているという人もいる。細かいイメージは人それぞれだが本質的なところは変わらない。手裏剣は手から離れるとその糸に引っ張られるように飛び、的に刺さる。これは私だけではなく、手裏剣を稽古している人の多くが一度は味わう感覚である。手裏剣は放物線を描いて飛ぶわけだから、実際に糸に引っ張られて飛ぶようなことはない。しかし的と自分の間には確実に目に見えない糸が存在しているのだ。
鬼滅の刃を漫画やアニメで見たから潜在的にイメージが刷り込まれていると思う人もいるだろう。しかし鬼滅の刃の連載よりはるか前からある手裏剣術稽古者たちが残した「手裏剣術得道歌」の中にこんな歌がある。

「間合いとは 手のうちにあり 射る的に 糸をはりたる 弦ばなれなり」

どうやらこの感覚はずっと以前から手裏剣を稽古している人間にとっては馴染みの深いもののようである。
手裏剣術者は手の内にある手裏剣の感触を頼りに、手離れの際のコンマ数秒で手裏剣に加える力を微妙に加減することでどんな距離でも90度しか倒さない直打法を成立させている。的までの距離を視認し、飛んでいく軌跡を強くイメージする。空気の乾燥や湿り気などは肌で感じるし、それによる匂いの違いも感じ取っているだろう。そして、極限まで緊張した時は口中の水分量も変化するから味も変わる。手裏剣を打つ瞬間、すべての感覚をフル活用しているからこれらの微細な違いを感じるくらいに集中をしている。
それだけの集中力を発揮した全身感覚の総和として、軌道が糸となりその存在を感じるのかもしれない。
手裏剣術は対人ではなく的と自分だけの世界である。
相手が存在しないから隙というものは存在しない。自分自身の認識の甘さを隙ということはあるが、それと的とは結び付かない。
もしこの糸を私が稽古している武道の風習に従って呼ぶとしたらさしずめ「好きの糸」となるだろうか。
よほど集中をして全身の感覚を研ぎ澄まさなければ糸を感じることは出来ない。それを感じるくらいに稽古をするにはまず手裏剣が好きでなければいけない。
好きこそものの上手なれとはよく言ったものである。


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