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大学院卒パチンコ店員がITコンサルタントに⁈

こんにちは、アルベナ広報です!
社員紹介第1回目は、異色の転身を遂げた名古屋事務所の西 大樹をご紹介します。


国立大学院生がパチンコ店員?!

反骨心と就職活動

私が就職活動をしていた2010年頃は、就職氷河期は終わったと言っても、まだまだ買い手市場の時代。内定をもらうためのイロハや、就職セミナー参加への圧力と、とにかく社会人になるためのお作法が重視されている状況でした。

法学大学院生の私は今より頭でっかちで、会社と従業員は対等関係でしょ?という考えが端々から滲み出ていました。そのため、ろくにエントリーシートも書かない。50社、100社受けることが当たり前の時代に、4、5社しか面接を受けない。その数少ない面接でも、話したいことを話して落とされていました。

とはいえ、この先なんとかしなければならない。博士課程を目指す道もあるけれど、学術会議に出た時に、非常に意義深い思いをすると同時に、『この先の人生ずっとこれを続けるのか』とも思ってしまいました。一瞬でも思ったらもう駄目でした。

働きたくないが働かなければならない、、、
そんな気持ちを抱えて帰省した折、祖母のお守りでパチンコ店に付き添いました。その瞬間ひらめいたのです。
「人手不足のパチンコ店なら歓迎してくれるのでは?」

結局、内定を得たのはパチンコ店のみ。他に選択肢がないことを理由に、パチンコ店に就職することとなりました。私としてはペコペコせずに就職できたことに満足していましたが、大学院にまで行って、パチンコ店に就職するという考えは到底理解されませんでした。唯一大学院の先生だけは「良いんじゃない?」と言ってくださいました(おそらくは事の是非ではなく、学生の決定を尊重することがより大事だと思ったのではないかと思います)。

ちなみに私、就職するまでパチンコを打ったことはありませんでした!

未知なるパチンコ業界へ

パチンコ生活は順風満帆?

新社会人生活では四六時中怒られていました。他の人が一度で覚えるような作業について、半年以上同じミスを続けたこともありました。よく折れなかったなと思うのですが、先輩上司が根気よく指導してくれましたし、その思いは伝わっていたので、ここで腐るわけにはいかない、と思っていました。

こういう経験は自分が先輩上司になったときも効いてくるもので、部下後輩の失敗には相当に寛容になれたと思います。

パチンコ店が教えてくれたこと

パチンコ店で身についた最も大きなものは「顧客最優先、ホスピタリティ重視の姿勢」です。当たり前でしょっと思うのですが、今いるIT業界では何かと首を傾げてしまう場面を目の当たりにします。これはIT業界に居る人の多くが、そういう訓練を行っていないからでしょう。

私は結構プライドの高い人間です。それでも、商売をする上で「お客様」への意識もまた強く持っています。義務だとか必要性だとか言い出すより先に、「顧客が満足するために最大限自分に何ができるか」を常に考えるのは良い意味で癖になっています。

またパチンコ店ではほぼ毎日、予想外な事故が起きました。顧客トラブルやら機械の不調やら。マニュアルにない事態について、5秒以内に何かしら見解を述べるか、対応をしないと「どんくさい」と言われてしまいます。

が、ここで最も求められるのはその一瞬の洞察力・判断力ではありません。結果がどうなったとしても「自分が責任を持つ」という覚悟です。「うまくいかなかったとしても、その時は(自分が)こうしよう」という気持ちがあって初めて次の行動に移ることができるのです。

あの環境において私は決して優秀ではありませんでしたが、それでも今の環境においては大分強みになっています。今と当時の仕事内容は全くつながっていませんが、なんだかんだで人間性の形成や、働くことへの意識の根っこの部分はずっと連続していると思います。 

人生の転機

パチンコ店員生活が終わるきっかけとなる二つの出来事がありました。

一つは2016年の熊本大地震です。
当時は九州にいながらも直接被害を受けることはなかったのですが、しばらく余震が続き不安に苛まれました。それでもパチンコ店は営業しています。そしてお客さんは逃げないのです。この状況に感じた違和感は拭えませんでした。お店側である以上、危険な状況においてはお客様の安全が優先されるわけですが、そのお客様が逃げようとしない。自身の安全はずっとやってこない。これは良くないと思いました。

もう一つは友人の転職です。
友人は未経験でIT業界に就職したのですが、1ヶ月も経たないうちに(ブラックだったため)すぐに転職。次の職場ではうまくやっていると知り、転職に対する敷居が大分低くなりました。また「自分でもITできるのでは?」という考えに至ったのもこれが理由です。

祖母の導きパート2

そんな訳で転職斡旋サイトを初めて利用することになりました。なんとなく祖母の実家を勤務希望地として入れていたところ、浜松のIT会社から内定を獲得。内定理由には「浜松と縁があることを鑑み」と書かれていました。祖母の趣味をきっかけにパチンコ店に勤め、祖母の実家のある浜松の会社に移ることになりました。

ITコンサルタントデビュー

天職との出会い

友人の件があるといっても、IT企業が何をしているかなんてまるで想像ができず、不安は色々ありました。が、結果として杞憂でした。というより天職でした。

私は昔から、自分のわからないことが苦にならず、むしろ興味深く感じる性格なのですが、これがIT業界を生きる上でうまく作用したのです。IT業界、特に私のようなコンサルタントは、テクニカルな内容といい、顧客が置かれた特有の状況といい、日々分からないことに囲まれます。人によっては「なぜ自分は理解ができないのだろう、同僚・先輩はあんなにも理解しているのに」と一人苦しむ場面があります。実際、分からないことだらけなのは自分だけではなく、誰にとってもそうなのです。このあたり、分からないことを悲観しない気持ちというのは非常に大事です。

さて、分からないということには顧客もまた苦しんでいます。その分からない状況を、コンサルタントの自分がなんとか理解しようと努め、かつそこにある課題の解決策を丁寧に考えていく。時にそれは、顧客の考えの先を行っていることがあります。そういった場面が何度かあると、顧客は自身を信用してくれるようになり、あるべき理想の状況に向かって顧客が動くようになってくれます。そうしてほんの少しだけでも、社会を良いように変えられた気持ちになれるのが、この仕事のやりがいなのだと私は思っています。

先輩に誘われアルベナへ

さらなる転職の機会は、向こうからやってきました。IT業界に入った私にイロハを教えてくださり、先にアルベナの前身となる会社へ転職していた先輩から、「うちに来ないか」と誘いがあったのです。その時すでに仕事にマンネリ化を感じ、多少の自信も持っていた私は、特に迷うことなく転職を決断しました。

前身の会社、そしてアルベナでは、それまでのコンサルタント業務にとどまらない、多様な働き方、会社への貢献方法(新技術の調査や社内イベントの企画等)を認めてくれました。特にアルベナ発足時は、ゼロから社内インフラの構築を担うという中々ない経験を得ることができました。最近では、話題の生成AIについても、業務の傍ら調査や動作検証を行っています。

縁もゆかりもない名古屋へと導かれて

コロナ禍の真っ只中、当時は全面リモートワークが労働条件とされていました。普通は「今の住まいを移すことなく仕事が続けられる」と考えるところを、私は「仕事場を自由に選べる」と捉えました。

そこで数ある選択肢の中から、なんの縁もゆかりもない「名古屋」を、いずれ拠点として確立すべく戦略的に引っ越ししました。名古屋は交通拠点として大変優れており、西日本を業務管轄の視野に捉えつつ、首都であり本社もある東京への移動にも不便ではありません。この条件であればアルベナ社内においても存在感を示すことができると睨んでいました。

他にも名古屋を選んだ理由は色々とあるのですが、この地域特有の文化に惹かれたところや、ずっと製造系のコンサルタントを務めてきたので製造業の盛んな地域に身を置きたかったというのもあります。そうしていつの間にか名古屋には何名かのメンバーが集まり、程なくして狙い通りに拠点として名古屋事務所が立ち上げられることになりました。

これからもやりたいことをやります

これからも私はアルベナでITコンサルを続けていきます。今や「IT」なんて日常であり、社会の一部といっても過言ではありません。ITの改善を図ることは、社会を改善することと同義と言えるでしょう。社会を変えることを自身が行っているんだという誇りがあればこそ、自身の振る舞い、身の置き方は他責的ではあってはなりません。アルベナでは良きリーダーであること、また次代を生き抜くための新しい価値観を提示できる柔軟性と器量、そして実行力が求められます。それは決して簡単なことではありませんが、私はそのようなメンバーが集うアルベナの一人として恥ずかしくない活動を続けていく覚悟を持っています。
やりたいことはたくさんあります!やらせていただきます!

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