生々しき混血(ハーフ)


混血は、「ポリティカルコレクトネス」ではない。

混血は、生々しい性の形である。

混血は、昨今の「単一・清潔・禁欲」的世界観に反する。

混血は、フェミニズムやそれら始め男女論・世代論の使徒ではない。

混血は、「綺麗」ではないのだ。


(例によって末尾に欲しいものリストと投げ銭コーナーを置いたので、この混血に金を握らせても良いという方は是非よろしくお願いします)

困惑させる混血

「みにくいアヒルの子」の例を引かなくとも、一つの特徴で統一されている(と思い込んだ)小さい子供たちの中に、違った肌や言葉を持つ者を放り込めば、残念ながらと言うべきか、いじめは発生する(ついでに書くと、混血は白鳥にはならない)。今、この記事でこの原理を詳しくは語らない。俺も、自分が小学校で何故いじめられたか説明できない。とにかく、嫌がらせは起きる。そして、大人は「それはいけないことだよ」と諭す……だろうか?

保守的な単なる差別から、日本的「りべらる」をも巻き込んだ「単一・清潔・禁欲」的世界観による手法へと、疎外は多岐化しつつある。不愉快で・不審で・不安になる様な存在は、建前上「殺す」ことは出来ないだろうが、どこかに閉じ込めたり、「自発的に去らせた」様に見せかけることは出来てしまう。混血も、実際この一分野になるだろう。

外国人と日本人が交際する、不安。混血が生まれる、怖い。我々と異なる顔や肌色、不愉快。我々と異なる文化や世界を知っている、ウザい。とにかく我々より「優れて」いようが「劣って」いようが(この基準自体がおかしいが)、日本の平穏を乱すようなことは、許さないゾ……と言った、これらの感情を、今や尊王攘夷運動の様に原始的に叩き付けることは出来ない(一部の極右や何故か自称フェミニストは今でもやっているが)。だが、むしろオブラートに包むと、出来る。

現代社会は、生々しきモノを忌避する方向に突き進んでいる。そして、それは単なる忌避と言う形を取らない。例えば性に関しても、子どもから「性」(表現)を遠ざける、だけではない。性教育を行いLGBTや避妊についても教えるなど一見先進的に見えるが、「オナニーする時にポルノを使ってはいけません」「とにかくスポーツなどで『昇華』し『その時まで』我慢我慢」的な誘導を行うという、「りべらる」的な手法も行われつつある。だが、性を青少年から取り上げ、主体性を奪っている点では変わりはない。俺は「反青少年健全育成」でもあるので(そもそも「健全」を何か指定されるという概念が大嫌いなので)、これらの動きには反対している。

性愛は、後進的で、野蛮で、悲惨で、社会から隠すべきもの、とされつつある。性(に限らないが)を解放するのでなく、管理する型に回帰してしまった。そして男女論は単にセックスを憎むだけには、終わりそうにない。混血への抑圧にも繋がっていくのではないか?

混血は「性的」である

そもそも人間から性を切り離すことが出来るのか?出来ないならば、それを受け入れて楽しむだろう。そしてその型は一都市や一民族単位でなく万国共通であり、ある男女は肌の色や言葉の壁を越えた……。

混血またはその前過程としての国際交際、年齢差恋愛、あるいは一部の先天的障害は、「性」を憎む人々、「単一・清潔・禁欲」的世界観を信奉する人々から特に憎まれることになるだろう(ここでは混血に限定して語るが)。

それは、「一般的な、慣習による婚姻」による出生よりも、遥かに「露骨な性愛」「意図」が感じられるからだろう。国境と、言葉と、文化と、また場合によれば宗教や慣習や年齢をも越えて、子どもを作った。その、「不気味」とも何とも言えない(俺には分からない)、とにかく「何重もの社会的バリアを越えて結びついてしまった」「慣習により管理できない」不純を、憎むのだろう。LGBTPZNと同じである。そしてその形が混血である。混血は最高の「解放」の末に生まれたのだ。混血は、最も古典的な性の解放ではないだろうか。(そして、本来は、みんな……)

俺は親個人についてはあまり好きではないしこんな世界に生まれたくはなかったが、お互い言葉も知らない「ガイジン」と交際し(生々しく言えばチンコとマンコをぶち込み合い)何かの形を作ろうとしたその意思には敬意を感じる。パパの精子とママの卵子の距離は、数十センチでは無かった。数万キロを隔てている。それを越えて、俺は生まれている。そして、数万キロ分、憎まれる。

だが本来、これは「特別」ではないし、個人的な労苦や勇気に思いは馳せれども選民主義に進むべきではない。俺が言いたいのは「国際交際は素晴らしい」「距離は遠ければ遠いほど良い」とかまたはその逆ではない。差を作り出している・混血を「特別」にしているのは現代社会の側である、と言うことは前回の記事に引き続き念頭に置かねばならない。そして隣町の彼女だろうが、地球の裏の彼氏だろうが、人の関係の形に明確な「基準」など無いし、故に個人の選択・表現・性に関して「基準」「制度」あるいは宗教的な「戒」を持ち込もうとする、「禁欲」的な人々とは敵対せざるを得ない。
混血が、「禁欲的・単一的・清潔的」世界観、表現規制、青少年健全育成、男女論などに加担するのは、自殺行為である。それは必ず、混血始め少数者・弱者を「穢れ」として排除する。

以下は個人的な一経験である。

ありがとう、レディース

2016年の夏、ツイッター上で、Y.M氏を中心として後にツイッターレディースと呼ばれることになる自称フェミニストの集団が、ムスリム・韓国人・ハーフを相次いで攻撃する騒動があった。この一連の行動は明らかにそれなりの人々に支持されていた。そしてその時、Bと言うフェミニストは、なぜかいきなり(一切接触していない)私に対して絡んだ後、仲間に向けて「国際結婚は国際強姦」だと言う意味のツイートを行った。

読者がこれをどう思われるかは知らない。だが俺は、その所謂国際強姦の子孫(だと日本人の皆様が感じられる存在)であるならば、むしろ堂々と街を歩き回って強姦の様子を見せびらかしてやろうと思う。俺は強姦の子孫なのか知らないが、まあまあ生命の基本的幸福みたいな点では幸せである。愉快か不愉快かで言えば後者寄りだが、幾つか新しい視点を得られたのも事実だ(だが他の混血も誰もこんな経験をする必要はない)。

そしてこのレディースは8月下旬、発達障害者に対しても攻撃を行った際に今度は大きな非難を受け、BやY.M氏を始め何人かが凍結された形で終わった、ようである(その後のことは良く知らない)。だが、発達障害者への攻撃と、それ以前のムスリム・韓国人・ハーフへの攻撃には何の隔たりがあったのだろうか。なぜ我々の時点では賛同されていたのか、そして以前の時点で賛同していた人々は今どうしているのだろうか。

だが俺は俺自身の選択・表現・性を生きる。俺は生々しく、色々「やりたい」。

もし、お上に定められた「ポリティカルコレクトネス」や表現規制を受け入れて表向き「平穏」に生きる道と、あくまで自分達の自由のせめぎあいの中に見出す道があるならば、消極的でも後者を選ぶだろう。前者は結局、少数者・弱者を封じ込める道だからである。我々はむしろ「政治的に正しくない」所で生き生きとしている。だがこれについてはまた詳しく語る機会を待ちたい。


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