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「ハーフ・混血・アイノコのための運動」は起こるのか、あるべきか、あるいは俺がそれを仮に作るとするなら

(例によって末尾に欲しいものリストと投げ銭コーナーを置いたので、この若造に金を握らせても良いという方は是非よろしくお願いします)


この記事で、俺は現代にあり得る非常に大まかな、二つか三つの混血が混血を語る形を想定した。あくまでそれは非常に根底的なものであって、そこから更に細分化していく物であるが。

一つ目は、狭義の混血……「黄色人種であると自認する日本人」と「外国人」の間に生まれ、政治的な困難を感知した子弟である。俺もまさにその一人である。
二つ目は、「では逆に、どこからが『混血』ではないのか?」あるいは「純血なるものがあるのか」という疑問から導き出される。俺は、「全ての人間は混血である」と、言う。ごく普通のことである。
そして、三つ目は、消極的かつ選択とも言えない感覚である。狭義の混血に含まれる(かも知れない)が、つまり政治的な「混血」観を必要としていない、ノンポリあるいは商業的な便宜のみ享受している人々である。しかしこれは悪意だとかあるいは「裏切者」の様に扱うことではないし、本当にごく自然な事態でしかない。肩を掴んで「お前は本物の混血か!?」などと、口が裂けてもやるべき事ではない。俺は、日の半分は狭義の混血を生き、もう半分は三つ目の生き(そして生まれてから死ぬまで二つ目を信じ)ているかも知れない。


考えてみれば、混血の根幹は本来定まらない。故に狭義だとか広義だとか、造語症のようなことをしても、空しくなる時がある。しかし同時に、「混血」として故国を持たないことは、何かしらの芯をも与えてくれる。「狭義の混血」に於ては、我々は海や陸の上に勝手に引かれた線を越えている。そして、狭義の混血を疑うか、そして信じるかと言う大根本が煮詰まった所に、運動は始まる……のかも知れない。

今の所、現代の日本本土における混血の(つまりアメラジアン、無国籍問題やGIベビーなどの過去からの切実な問題とは別に、一般生活を支えたり相互互助を行い、そして政治的圧力を持つ)政治ないし思想運動団体というものを、俺は知らない。そしてそれは生じうるのか、連帯しうるのか、必要が無いのか、それを誰が語れるのかも分からない。しかし少なくとも、単一民族観を信奉する人々から「問題が無いからそもそも運動が起きないんだろうが」と言われる筋合いは始めからないことも確かである。

在日朝鮮人や在日中国人といった長らく日本において様々な歴史がある人々のハーフは、混血よりも先に中国や朝鮮の出自を名乗るだろうか。中東系と日本人の婚姻によるムスリムの家庭に生まれた子は、自身を混血と認識するだろうか。それともいずれ地上の人種を超越したムスリムであることを確信するだろうか。男性であるとか女性であるとかに最初から回収される者もいるのだろうか。全てはケースバイケースであるし、それが良いとも悪いとも言えない。「混血」の難しい点は、個人の誇り以上に、根源を指定しづらい点にある。そして我々は、せいぜい他の問題に付随するオマケみたいな者として扱われる事もある。ハーフが自らについて語るのではなく、「ポリコレ」的出来事に付随するハーフ問題、と言う様に。

過去の一つ一つの事については語らない。ただ、ハーフと言うものが現代日本で、センセーショナルかつ「理想的に」運動化ないし運動に組み込まれた際、確実に……「りべらる」的に期待され得る「光のハーフ」と、それも適わず都合の悪い(そして最終的に覆い隠される)「闇のハーフ」が現れる、と俺は思っている(恐らく肌の色もこれに比例しかねない)。つまり、社会の根源を脅かさず「無害」さを維持しつつマスコットになれる者と、出自や慣習や偏見や諸々によって日本との差異が大きく「女・こども」からの評判も良くなさそうな者と。無論、俺は闇側であろう。

「でもやるんだよ!」と言う、良い言葉がある。色々悩む点はあるが、まず俺が考えてみよう。今まで俺が見聞きしてきたことから生れ出でた、「運動の私案」を記す。ここでいう「混血運動」は、ほぼ、イコールで俺の事となる。



・混血運動は、何が「混血」たるか(そしてこれが何か最終的に上手く定義し得ないのがこのマニフェストの問題点だが)について、いくつかの尺度を持っているが、戸籍上の出自に寄らず、この運動に共感する人々の参加を歓迎する。

・混血運動は、自らが「国際強姦」「優生学の失敗」「人種的カタワ」「気狂い」「一種の障害者」「遺伝病予備軍」「得体の知れない何か」と呼ばれる存在であり、そしてそれが蔓延って平然と生きていることを誇る。キレイな言葉でも、またキタナイ言葉でも我々をどうと定義することは出来ない。しかし、我々の出自が国家や社会に対して有害ないしは何かの影響力を及ぼさなければ、「混血、ハーフ、ダブル云々」という呼び名は生まれなかった。我々はこの矮小な恐怖による影響力を誇る。

・混血運動は、出自の過去を問わない。どこの何人の何民族の何歳の何教の何色の肌を持つ父母の元から生れようが、我々はそれを差別しない。例えば、ある者は「国際強姦」「イエローキャブ」という言葉を混血や国際交際者に対し使っていたが、仮に我々の祖先に強姦者なり売買春業者なり他諸々がいたとしても、全く気にすることはない。そしてまた我々は、他人の交際形態について批判しない。


・混血運動は、単一民族観と曖昧な恐怖によって支えられた、幼少時の固定された教育と受験・集団的な就職・そしてピラミッド的な権力への従順さ……等によって構成される「良い国民」像に従うことを推奨しない。特に教育制度への疑問は保たれているべきである。


・混血運動は、フェミニズムやメニニズム始め男女論、世代論、地域論に加担せず、また、それらの影響から離れるべきである。単純に「男性・老人・地方が悪で、女性・若者・都心が正義」(逆も然り)というような世界観を、とうに超えているべきである。それらは、いずれ混血を殺すものである。我々は個人の人間関係を水膨れした様な論理で引き潰す世界観を求めない。我々の父母が、「適当」なセックスの末に我々を産んだとして、何の問題があるのか?


・上記に付随して、混血運動は表現規制運動や「青少年健全育成」運動、性嫌悪運動などに加担してはならない。それらはいずれ我々を絞め殺すものである。「放埓な自由」と「安心できる規制」のどちらかを選ぶなら、我々は自由を選ぶ。我々は「規制」の中からは決して生まれなかった。また、青少年にして少数者という人々が受ける二重の抑圧を考えれば、規制に加担することは出来ない。通学路に風俗店があり、裸体が雑誌に堂々と乗り、秋葉原に堂々とエロゲの広告がある、その街頭は我々の潜在的な味方である。我々は青少年の自由な選択・表現・性を応援する。

・混血運動は、宗教ないし神権主義から中立ないし超越していなければならない。即ち、無宗教(無神論に非ず)・不可知論・宗教多元主義・ユニヴァーサリズム・世俗主義のいずれかか、兼ねるものである。我々は国境と大陸を越えて生まれることもあるのに、なぜ中東の片隅で生まれた神や、北インドの一修行者や、極東の一シャーマンが勝手に押し付ける世界に、心から従わなければならないのか?

個々の関係者の信条は問われないし日常の様々な文化的行事はそれぞれの信念で付き合えば良いが、混血であることよりも何らかの単一宗教の選民であることを自発的かつ積極的に選ぶならば、それに既に「救済」されているのだから、混血の運動はその人物には恐らく必要ないものであろう。

・一方で我々はシンクレティズムを歓迎する。それが意図的に起きたものであれ機会的なものであれ。単一にして神聖なものは、多元的にして我々と同次元の土俗的な物に取り換えられるべきである。神仏が習合し、教会にある純白のマリア像が褐色に塗られ、さてそれで何の問題があるのか?何故紀元前の人間が神を作って良くて、現代の我々が神を作ってはならないのか?

・混血運動は、「ポリティカル・コレクトネス」を信用しない。政治的問題に関知し、抗うことを肯定するが、その際に「単一の・ある部分からしか発せられていない・パッケージングされた・メディア等にとって便利な」基準を一律的に採用することはない。それは我々が「無害化」させられる道具にもなる。また同様に我々は社会問題を語る時に、「大人・幼稚」と言う尺度や「宗教的な原罪がないから~」云々といった尺度を持ち出さない。誰が決めているのか不明だし、その様な尺度が我々を苦しめてきたのだから。


・混血運動のメンバーの互いが、同志と言う感情を抱けるならばそれは最高の喜びである(運動は出会いの場でもある)。と同時に、崇高な「同」に拘る必要もない。「我々は同類である」と言う関係もある。我々はこの単なる極東の島国の政府から拒絶されている人々と「同類」であることを誇り、共に歩める限り歩みたいと思う。

・「混血」と言う概念は、それぞれの地域や文化(それは国境線には沿わない)の実情と沿って展開されるべき……だが、日本においてはほぼ意図的な無視ないし行政上の不利な扱いが行われ、自由や政治問題と直結したがために、混血運動は社会に対し抵抗する姿勢を持つ。国外の問題や連携については追々のこととなるが、個々人が自らの出自との繋がりを持つ事には反対しない。

・上記に付随し、混血運動の公用語は、日本国内にある限り限界的に日本語になるであろうが、個々人が様々な言葉、手話、ジェスチャーを発展させることに反対しない。

・混血運動が、長い運動の果てにごく最終的な目標とするところは、

 1・まずは、この極東の島国を、世界の避難所にして融和の根拠地とすること(もっと平たく言えば、世界の駆け落ち先となり、いつの時代にも存在した、「狭間」で苦しむ者を保護すること)。

 2・表現や娯楽、内心、交際の在り方について介入せず、衣食住の不安が一切ない、人間及び文化の多元的な保護と発展のみを目的とした人民共和政府を求めること。その闘争として選挙や政治運動のみならず自由な表現や生活にも活路を見出すこと。

 3・過去及び現在に対しては、世界における様々な融和混合の顕彰と、情報の収集を行う。そして未来に対しては、この「出自」を生かし将来の人類文明に向けての提言とその実践を行う。

 4・我々が、我々自身の人生を楽しむ。それは即ち、まだ見ぬ衣食住性・思考考察・出会いを、人種や宗教などに由来する偏見といったこれまでの軛を出来る限り排除し、ただ楽しめるようになるために。そして地球の先には宇宙があるだろうが……その話をするにはまだ流石に早すぎる。



様々な事を書いた。重要な「運動が必要か」といった点への疑念は振り切れたわけではないし、多分部分部分で重複し筋も蛇行しているだろうが、運動としてのごく最低限のことは踏まえたと思っている(経理などを除いて……)。

まず、俺自身がこれに従えるだろうか。例えば、俺はあくまで世俗主義者を自負しているが、さてどこまで本当に「世俗的」なのが(ある点でやはり何かの迷信に縛られていないか)、中々自信がない。が、「混血と言う概念そのものが迷信だ」とまでは踏み込まれる気もない。それは確実に、社会によって日々産み出され、存在している。……故に、個人的な実践(だけ)については、自信がある。俺はゴキブリのように扱われた事もあるが、さてゴキブリが「人間様」の事情を考慮するだろうか?と。

冒頭の通り、現時点ではこれは単なる私案であり、実際に団体などを今すぐに立ち上げる物ではないが、意見や質問はコメント欄なりTwitterなりで歓迎したい。(全てに答えるか等は分からないが)




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