無邪気にポジティブに、「良識」「常識」がアップデートできたなどというものども

良識・常識は、「多数派が安心できるもの」である。少数者・弱者に対してはそれを守る物ではなく、「無害化」することに重点が置かれる。


(例によって末尾に欲しいものリストと投げ銭コーナーを置いたので、この混血に金を握らせても良いという方は是非よろしくお願いします)


・~イズムを学んだら物の見方が変わったノ!…か?

男女論者……一部のフェミニストらしき人々、あるいはポリティカル・コレクトネスに触れた人々が「それを学んでから価値観が『進歩』した、新しい『見方』『良識』を得た、『呪い』が解けた」とポジティブに語ったりツイートする場面がそこらで見受けられる。ポジティブに!そのポジティブさ、無邪気さがむしろ一ハーフとしては信用ならない。その新しい価値観を得て見事にポジティブに「混血は国際強姦」云々と言い出す者もいたのだから。

進歩とかアップデートと言う物は、単に新しい家電を買って生活がより新しく楽になるというような意味ではない。他人や社会への向き合い方が大きく変わると意味を持つ……筈だと思うのだが、どうも様子を見ているとそんな深刻さや重厚さは無いようで、ただ言葉を取り換える道具と言った意味らしい。

自分の価値観や存在などあやふやな物が、「正」「聖」「清」(「三つのセイ」と造語しても良いが)の方向に向かっていて、そしてでは周囲の人々や表現は劣っていて、それについて強制・矯正したり規制や隠したりすることが出来ると見なす、その様な世界観はさらに別の問題を引き起こしていく。自分が清らかになったと思い込むなら、その裏では「穢れた人々」も生まれているのだ。そしてそれは社会の中で繰り返されてきたことである。進歩進歩と言っている集団すら。

人々はいつも街を綺麗にしたがる。綺麗に。「ふつー」であるために、単一的・禁欲的・清潔的世界観は都合が良い。だが、「ふつー」とは誰にとって?オレたちワタシたち、社会の主役たる「ふつーの日本人」にとって!綺麗にするんだから価値観をアップデートしよう!価値観!誰の影響を受けているのか?分からない。とにかく見慣れない物・奇妙な物はどうにかしなければならない。そう言う時は、女性にも「活躍」してもらおう。……


良識・常識は、「多数派が安心できるもの」である。少数者・弱者に対してはそれを守る物ではなく、「無害化」することに重点が置かれる。「キモいから在日外国人やハーフやホームレスや障害者に街にいて欲しくない、裸の男女はイカガわしい」とは「今時」言えない。これは確かに様々な努力によるアップデートである。だが、「女性・家族の安心のため」「子どもへの配慮のため」なら(あるいは「オリンピックや万博のため」なら)、ちょっと砂糖をまぶしたような口ぶりで言える。最近なら一部の学者が恐怖心にお墨付きもくれるのかも知れない。「より巧妙に、心が痛まないように」人々を排除出来るという点では、なるほど、これもアップデートだし、「呪い」も感じない。


・価値観のアップデートは「例えば、奴隷解放」と結び付けられるのか

特に昨今の様々な表現(献血のポスターやら、キャラの股間が食い込んでるやら何やら)への抗議が相次ぎ続けている状況について、規制側が何かの表現を指し、「これを規制・改め・『良識をアップデート』させるのは、『例えば』奴隷を解放するのと同じことなんです」と歴史上の出来事を引く場面もある。奴隷を解放した歴史も無い上にそう一ツイートや二言で歴史の出来事を直ぐに引用できること自体も早急だとは思うが……この表現や「良識」を「アップデートする」ことを「奴隷解放」等に単純に結び付けられるとも思わない。

近代奴隷制の主たちも正に「自分達が進歩している」と思い込み、言葉や伝承や踊りなどの文化を奪って人々を屈服させる術を見事に発展させ、「放埓な・怠けた・文明的でない」他人種を矯正しているつもりだった。そしてそれに対する側も、他人種について「心から」考えている訳ではなかっただろう。本筋とやや離れるが…南北戦争前の奴隷解放論者でも「黒人が『劣っている』『自立性がない』」ことに「留意」していた人々は大勢居ただろうし、リンカンは奴隷解放論者だったかも知れないが他方インディアンへの攻撃は行った。黒人の蜂起を目指したジョン・ブラウンの、そのハーパーズフェリーでの「行動」はやり過ごされ、単に象徴となった。自分が「黒人」「インディアン」「混血」と本当に同じ存在であるとは誰も言いたがらなかった。

ある表現の内容が先進的か後進的かはここでは言わない。自分にも「不快」な表現は色々ある。しかし、表現やその自由・多様性は、少数者・弱者も大いに絡み、あるいは途方もない交流の末に発展して来たものだ。革新的な表現、混ざり合う表現は大体逸脱している。「日本人だけ」「男・女だけ」……一通りや数通りの表現しか認めず、個人の「逸脱」を認めず、あるいは何が有害かを勝手に定めて表現を奴隷にし、それで全ての物差しにする様な社会ならば、とっくにこの列島から様々な表現…恐らく「色彩」とか「音色」とか「遊戯」と言った概念すら消えていただろう。その点では、今日本にある様々な漫画やアニメは自由の象徴ではあるし、今行われている様々な表現規制とその要求は全く「後進的」である。表現は誰が豊かにして来たか?それは保守派でも男女論者・世代論者でもなく、ましてや「常識や良識が簡単に(多数派が考えた)正の方向に『上がる』」と思う人々でもなく、違いに興味を持った人々だろう。


・本当に進んでいるのか

ここで言いたいのは、進歩か非進歩・反進歩・アンチ進歩かみたいな話ではなく、我々がポジティブに「良識的」「進歩している・した」と思い込んでいる事の幾つかは、別の打算だったり別の分離なのかも知れないし、それは胸を張って言える事なのかと言う点である。ましてや「進歩」の裏に監視社会化や様々な表現規制も含まれるなら、それ以前と少数者・弱者への抑圧は変わらない。それは一ハーフとしてはっきり述べておく。保守派による表現規制も、フェミニストによる表現規制も、少数・弱的人々にとっては結局変わらないのだ。

ここで世界史やジェンダー史を一つ一つ解き明かしていくようなことはしないが、男女論や世代論も、ある時点では(そして全ての段階が並行してもいるのだが…)他者の解放を志している、のだろう。が、私に突然絡んできたあるフェミニストは見事に一周回ってただ化粧だけを直して元の位置に戻ってきた人物であった。保守派が「国際結婚する奴は売国奴である」「障害者は国のお荷物である」と言うところを、女性の恐怖か何か知らないが「国際結婚は国際強姦である」「障害者は『安全の敵』である」云々と言い直す知恵だけがつき、それが周囲の名のある男女論者にも評価されている、無邪気で悲惨な光景を見せてくれた。国や保守的な恐怖感と言う柱の周囲を周って、修辞法以外、何も変わっていなかった。そして同様の光景はあちこちで起きているだろう。


以前毎日新聞のインタビューで少し触れた通り…一つの思考に固執すれば何でも閉塞する。俺も一種の左翼ないし個人主義者であり差別に抵抗する者だ、が「禁欲的・清潔的・単一的」世界観に染まりたくないし、あるいは自分が「正・聖・清」の方向に進んでいるとは思わない。一表現者としても一ハーフとしても、自分の方角は自分で咀嚼して定めるだけである。



そう言えば、表現規制問題関連の出来事の中で、ごく単純にそれをやるだけで、世の中が「良くなる」ことが一つある。「青少年健全育成」云々を取りやめることである。これだけで相当の青少年が解放的になり、ひいてはこの社会の将来を解放的にするだろう。これは至極単純なことだ。無論、大半の人々は訳も分からない恐怖で拒むだろうが。



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