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なぜ自殺は悪いことなのか。~ どんな境遇に置かれても、人には『生きる義務』がある ~

私が持っている知識と経験を元に、なぜ自殺することは悪いことなのかを考察してみようと思います。
長くなると思いますが、よろしければお付き合いください。

1  そもそも自殺は悪いことではないという考え方

「自殺」とは、自分の「命」を自分自身によって壊すことだとします(病気や老衰、事故などによって「命」が壊れてしまうことは「自殺」ではありません)。
「自殺は悪いことではない」という考え方は、自分の「命」をどうするかはその人の「自由」であるべきではないかという発想によるものです。

例えば、自分が持つ「所有物」であれば、その物を壊しても誰にも文句は言えない(壊した判断の責任は最終的には所有者である自分にある)と思います。
理由や経緯はともかくとして、自分の「所有物」を壊そうと思って壊した経験は、誰にでもあると思います。

自分の「命」も自分の「所有物」だと考えた場合、同じように自分の判断で「自由」に壊してよい(『死ぬ権利』が認められる)のではないかという発想です。

確かに、自分の人生(自分はどう生きるか=自分の「命」をどのように使うか)は「自由」だと思います。
しかし、自分の「命」を壊すことは「自由」ではないと考えます。
なぜなら、一度この世に「生」を受けた以上『生きる義務』があると考えるからです。その意味で「命」は「所有物」ではありません。

したがって、自分の「所有物」と同じように考え、「個人の自由」(自己責任)を理由に、自殺は悪いことではないとする考え方は失当だと思います。

2  なぜ『生きる義務』があるのか

自殺が悪いことなのは、『生きる義務』に違反するからです。
生きることは「権利」であり、「義務」でもあるという発想です。どのように生きるかは「権利(自由)」ですが、最期まで生き抜く「義務」があると考えます。『生きる義務』がある以上、『死ぬ権利』は認められません。
では、どうして『生きる義務』があるのでしょうか。

(1)  身近な人を悲しませない

よく言われるのが、「あなたが死ぬと身近な人が悲しむでしょう」「産んでくれたお母さんを泣かせるな」といった言葉です。
「身近な人を悲しませない」ために『生きる義務』があるという発想です。

ただ、この発想がよく批判されるのは、悲しんでくれる人が身近にいなければ死んでもいいのか(『死ぬ権利』が認められるのか)という話です。
お母さんから「お前なんて生まれてこなければよかったのに」と言われた人は、『生きる義務』がないのでしょうか(「琴浦さん」というアニメの第一話はとても面白かったです)。
「身近な人」という他人によって『生きる義務』が自分にあるかどうかが決まるというのは、違うのではないかと思います。『生きる義務』のある人と『生きる義務』のない人が、他人の主観的な感情によって世の中に存在するというのは公平ではないと思います。
また、身近な人が、ある人を早く死んでほしいと願っていたとしても、その人には『生きる義務』があると考えます。

よって、「身近な人を悲しませない」ために『生きる義務』があるとする考え方は失当だと思います。

「私はあなたに生きてほしいです」と伝えるのは「願望」であり、伝えられた人に「義務」を課すものではありません。
ただし、伝えられた人が「願望」を聞き入れてくれるかもしれないので、無意味ではないと思います。

(2)  神様の命令

神様(カミ、天)がこの世に自分の「生」を与えたのだから、自分自身で「生」を絶つのは神様の意思に反する、神様から与えられた使命を果たすまで『生きる義務』があるという発想です。
神様の意思や使命が何かは、「神様の教え」(信仰する宗教の教義)から分かるという考えです。

教義のある宗教の信徒であればなじみやすい考え方かもしれませんが、無神論者や教義のない信仰者(神道などの土着信仰)にとっては違和感があります。
また、この発想は義務感が強く、「生きる権利」を認めることになじまないと思われます。

よって、「神様の命令」だから『生きる義務』があるとする考え方は失当だと思います。

熱心に信仰する人が、「神様の教え」に従って生きることを否定するものではありません(「信じる者は救われる」と言われます)。
ただし、信仰していない他人にその内容を「義務」として押しつけることはできないと思います。

(3)  社会の要請

生きることは「社会」からの「要請」であるという発想です。『死ぬ権利』を「社会」が認めていません。そのため『生きる義務』があります。

私は、「社会の要請」のために『生きる義務』があるとする考え方が妥当だと思います。『生きる権利』は「個人の自由」ですが、『生きる義務』は「社会の要請」という発想です。

勝手に死のうと思って死ぬことは「社会」が許していません。
自殺志願者にはなんとか思いとどめてもらおうと専用の相談センターを設けるなど、「社会」は手段を尽くして食い止めようとします(例えば、各都道府県・政令指定都市には必ず「こころの健康相談ダイヤル」が設置されています)。
お金に困っての生活苦に「生活保護」、借金で追い詰められないように「自己破産」、休職が必要な傷病を患って収入がなくなった場合に「傷病手当金(健康保険)」、職を失った場合の「失業手当(雇用保険)」、障害により就労できない場合に「障害年金」といったように、「社会」はその「社会」の構成員となっている者が金銭的理由で自殺しないための「制度」も作っています。
『生きる義務』を免除する(『死ぬ権利』を認める)のは、「尊厳死」など「社会」が定めたルールによって認められた場合だけです。

以上から、私は「社会の要請」から『生きる義務』があり、自殺することは『生きる義務』に違反するので悪いことだと考えます。

なぜ「社会」が『生きる義務』を要請するのかは、「社会」の構成員でそう決めているからです。
「社会=国家」とすると、「国家」の基礎法(最重要ルール)である「憲法」の中でそう決めています。「憲法上の権利」は生きている人に認められており、生きることを前提にしたものです。
「社会」が生きることを求めています。


3   まとめ

以上のとおり、「社会」が自殺を悪いこと(罪)だと決めているから悪いと考えます。
「罪」を犯せば「社会」は「罰」を与えますが、自殺者自身には「罰」の与えようがありません。
一方で、自殺を強要した人や自殺を手助けした人には「罪」を問い、「罰」を与えるのは「社会」にとって当然と言えます。

自殺未遂者には、「罰」を与える代わりに、生きるメンタルを回復させる「治療」を与えます。『生きる義務』を果たすためには「罰」よりも「治療」が必要だからです。
「社会」は「罪」を起こすこと(自殺すること)を未然に防ぎたいので、様々な予防策も講じています。

「社会」が自殺することを許してくれない以上、しんどくても生きていく必要があります。
どうやって生きるかは「自由」であれば、何とか上手く工夫して、使えるものは使って、助けてもらえるなら助けてもらって、どうにか生きていかなければいけません。
環境を変えるための行動を自分で起こすことで、現在のしんどい境遇を変えていく必要があります。
「義務感だけでは生きられないし、どうせなら幸せに生きたい」と思われる方は、前記事の『嫌われる勇気』で書いた文章をご覧いただけると幸いです。


長くなりましたが、なぜ自殺するのが悪いことなのかを考察し、文章に書いてみました。
人の数だけ色々な考え方(価値判断)が世の中に存在するので、私の考察が数学の論証のような絶対に正しいものだとは思っていません。


最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

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