温故知新への疑い

 仕事がら、いわゆる「読書家」という人種とよく接する。するとやはり「最近は若い人が本を読まなくなっちゃって…」というれいのぼやきを耳にすることが多い。たぶん、僕はフォロワーさんの誰よりもそういうぼやきを日常的に耳にしているんじゃないかと思う。
 しかし、そういう物言いにはあまり共感できない、というか疑問山積なのである。なにぶん接客なんで「そうですねー」なんてニヤニヤと曖昧な受け答えをせざるを得ず、余計にモヤモヤが溜まってゆくのでこのさい吐き出してしまおう。今回はそういうエントリーです。

 まず第一に、「若者の読書離れ」を嘆いてみせる、という態度の凡庸さ。そういう物言いはいつの時代にもあることで、それこそいろんな本を読んでいるのだったら、常に言われてきた手垢のついた言葉にすぎないことに気付いてほしいのだ。
 あなたは読書をして、そのぶん知識だとか見識を得て、思考力だって磨かれているはずじゃありませんか。それがいい歳になって、なんでそんなことを臆面もなく言えるんですかと。
 まあ「今日はいい天気ですね」とか「ガソリン代が高くなっちゃって」みたいな、あまり意味のない会話の埋め草に過ぎないかも知れないけれど、それにしたって、おっさすが読書家だね、目の付けどころが鋭いね、とか短い言葉のなかにも深い含蓄があるね、と思わせるようなことを言って欲しいではないか。

 それからもちろん、ハイパーテクストが全面化している時代において「紙の本」とスマホやPCなんかに表示されるテクスト、あるいは動画や画像も含めて――を明確に線引き出来るのか、ということがある。
 たとえばブログの書籍化されたものを読むのは「読書」で、元のブログをネットで読むのは「読書」ではないとしたら、そこになにか価値の優劣があるとしたら、おかしいではないか。あるいは書籍も出している著者が、出版する予定はないけれどとりあえずネットで発表しているものは「読書」には入らないのか。あるいは書籍を出したことはないけれど、下手な書籍よりもずっとちゃんとしてるブログを読むのはやっぱり「読書離れ」になるのか、あるいは――云々。
 メディア環境の変化によって紙の本の優位が揺らぎ、「読書」という概念を単純に信じられなくなった――ということについての思弁だって、たとえばジョージ・P・ランドウ『ハイパーテクスト』やジェイ・デイヴィッド・ボルター『ライティング・スペース』といった他でもない紙の本、あなたたちが得意とする紙の本で積み重ねられてきたことですよね。これまた、「若者の読書離れ」を嘆いてみせるのなら、そうした議論を踏まえていないのはどうなんですかと。

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 誤解のないように言っておくと、ただ読書が好きなだけ、という人にそういうことを求めたりはしない。映画が好きだから映画を観る、テニスが好きだからテニスをする、というのと同じように、ただ楽しんでいる人にあれこれ要求を突き付けることはない。
 しかし「最近の若者は本を読まなくなっちゃって…」という言明はあきらかに「本を読んだほうがよい」、つまり「他のことをするよりも本を読むことに優先的にリソースを注ぐべきである」ということを必然的に含意するわけであって、それならば、本を読むことのプライオリティを示して欲しいのである。
 ところが僕が見聞する範囲でいうと、どうも読書家というのは、単に本を読む習慣があるだけで世情にうとい人、にもかかわらずそういう俗世間のことをうっすら馬鹿にしている人、という場合が多いように思うのである。

 きわめつけは、去年だったと思うのだが「最近の人は本を読まなくなっちゃって…」という言葉のあとに「最近はみんなテレビですからね」と言っていた人。去年ですよ。令和5年。
 まあこれも、「テレビ」という言葉にネットやらスマホといったものがぜんぶ代入されている、と擁護的に捉えることは出来る。ちょうどゲーム機ならなんでも「ファミコン」と言っていたおかん世代と同じアレだ。

 しかし、しかしである。
 そもそも「本を読んだほうがいい」のは何故なのか、日常的にこういう、もうほとんど思考停止みたいな言葉に晒されていると、ひじょうに疑問になってくるのである。一言で言えば、
 「温故知新って、ウソじゃね?」
 と。だいたいそういう人らに生成AIの話をしても「ハニャ?」であり、フェイクニュースの話をしても「フニャ?」であって、Qアノンの話をしても「ギコハニャーン」なんである(ちなみにそれらを論じた本だってすでに色々出ている)。
 いやそれどころじゃない。「若者の読書離れ」を嘆く中年・老人に21世紀になってから起きた社会の変化について話しても多少なりともクリティカルな答えが返ってきたためしがないし、昔さんざん言われてきたことでも最近の研究では否定されていて…という話もほとんど通じないと言っていい。

 僕自身、そういう傾向はあって、まあ臆面もなく「若者の読書離れ」と言ったりはしないものの、どこかしら「紙の本を読むかどうか」で他人を値踏みする部分が、ないとは言えない(ほんと申し訳ない…)。また、いちおうIT文明を批評的に考察するというタイプの本を読むほうであり、AIやヴァーチャルリアリティ、またSNSが人間関係や価値観にもたらした多大な変容についてアンテナを貼っているつもりではあるが、たしかに政局だとか海外の戦争の細かい戦況、最先端のビジネスやサービスといった先月今月のようなニュースはすぐ知らなくてもいいや、と思っているふしがある。
 「自戒を込めて」っつうのも凡庸な〆である。自戒はもちろん込めるのだけれど、それにしても、けっこう紙の本を読んでりゃいい的なマインドって危ういと思うんですよ。読みますけどね。読みますが、読みつつちゃんといろんなことに気を配ってゆこう、みたいな…

 というわけで今日はそんなお話でした。それではまた(・ω・)ノシ


 【追記】
 上記の内容をアップロード後、もともとの温故知新はそういう意味ではない、という主旨の指摘があった。

 手元の金谷治訳を確認したところ「古いことに習熟して新しいこともわきまえれば、教師となれるだろう」となっている。
 書庫から木村英一・鈴木喜一訳も見つかったので引っ張り出してきた。それによると「古い事をじっくり味わって[そこから現代に処する]新しい知恵を汲み取る、という人物ならば、人の師となることができるだろう」とあり、新しいことを直接知れというニュアンスではないようだ。同書の注では『礼記』学記篇の「暗記だけの学問では人の師となることはできない」が参照されており、これらを併せ、自ら思索することによって伝統の中から新しい物を発見してゆこうとするものと解釈されている。
 こちらも新しいことを直接知れとは言っていない。言っていないものの、ただ伝統を鵜呑みにするのではなく思索することで、伝統のなかに現代に対応する新しい物を見つけよ、と主張しており、またそもそも新しいことを「わきまえる」とか「現代に処する」というのを、新しいことをまったく知らずに出来るはずはないのだから、新しいことも知れと言っているも同然だろう。
 貝塚茂樹訳はちょっと手元にないのだが「煮つめてとっておいたスープを、もう一度あたためて飲むように、過去の伝統を、もう一度考えなおして新しい意味を知る、そんなことができる人にしてはじめて他人の師となることができるのだ」というものであるらしい。過去の伝統をそのまま新しいことの解釈に当て嵌めるのではなく、過去の伝統を再検討することで(現代に対応する)新しい意味を知ってゆこう、という話。

 総じて、伝統を知ることは大事だが、それは現代を考慮してつねに再検討してゆくことで絶えず甦らせてゆく必要がある、ということを三つの訳は述べているように思う。
 その気になれば『論語』の訳や研究はほとんど無限にあるのだが、まあこのnoteは訓詁学をやろうというのではなく、たまたま「温故知新」という言葉を(正直、なんの気なしに)使っただけなのでこのくらいにする。
 およそ温故知新は語義的には新しいことにも注意を払え、また古いものを絶えず再検討せよという含意がある、というように了解しておきます。あしからず(・ω・)ノ



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