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酔生夢死試論、またはエンタメと死の超克

 もう10年以上前になるが、母のガンの再発・転移が発覚し、前途の明るいとはいえない病床生活に入るさいに、僕が母に買ってきてくれと頼まれたのは「日本のむかしばなし」の本と「古典落語のCD」、それに「PUFFYのアルバム」だった。
 そのことを今でも時々思い出す。「日本のむかしばなし」には、死を前にした人が求めるなにかがあるのではないだろうか?
 「日本のむかしばなし」と「古典落語」との繋がりで、おぼろげながら口承文芸に属するもの、千年一日のように変わらぬ伝統的な人々の暮らし、みたいなものが何か関係しているのかな、と思った(PUFFYも何か関係あるのかも知れないが、よくわからない)。

 後にひととおりの〝人文学的答え合わせ〟は得られることとなる。というのもハロルド・シェクターが著書のなかで、エリアーデを引きつつ次のように述べていたからだ。
 世の中では、不思議な物語は時間の浪費であるとか、いや治療的効用があるといった実用的次元の議論がさかんである。

 しかし、ここでしっかりと頭においておきたいことがある。著名な神話学者、ミルチア・エリアーデが指摘しているように、神話の重要な機能はまさしく時間を「浪費する」――壊す、完全に潰す――こと、すなわち、われわれを歴史の歩みの止まった死のない永遠の世界に運ぶことにあるのだ。

ハロルド・シェクター『体内の蛇 フォークロアと大衆芸術』

 シェクター-エリアーデによれば、むかしの人びとは神話の語りや演劇に没頭している時、それによって自ら神話を反復するのであり、したがい一時的に時間を超越し永遠と一体化することが出来たということらしい。

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 そして世俗化された現代社会においては、かつて神話が担っていたそのような機能を、娯楽、遊びといった「時間潰し」が担っているのだという。
 神話から娯楽へ。となれば、当然その間のどこかに「むかしばなし」=民話も入ってくるであろう。落語も入るかも知れない。PUFFYは…やっぱりよくわからない。

 またエリアーデは、労働もかつてはそのような聖なるもの、時間の外側に出るものだったと述べる。なるほど前近代の「聖なる社会」においては、神が人それぞれにふさわしい身分を与えるのだから、たとえ貧農だろうが乞食だろうが(中世ヨーロッパにおいて乞食はれっきとした職業だった)、働くことは即、天分を全うすることになるだろう。
 だが、こんにちはもはや労働は聖なるものではない。エリアーデのこのあたりの議論はマルクス疎外論にかなり接近する。

 時間からもはや逃れられないために日常的業務の囚人のように自分を感じるのは、歴史的には現代社会において初めてのことである。そして仕事中は自分の時間を《つぶす》ことができないために(中略)自由時間には《時間から出よう》と務める。こうして目まいがするほど夥しい数の気晴らしが現代文明によって考案されてくる。 

エリアーデ『神話と夢想と秘儀』

 見てのとおり、このエリアーデの議論は強烈な逆説だ。なぜなら我々は通常、仕事だとか学習、人脈づくり、何らかの生産的活動や知見を広めるものを本来的な、充実した時間ととらえ、娯楽については、せいぜい休息や気分転換、ストレス解消というていどの消極的意義しか認めていないからだ。
 先日ネットで見た統計では、現在は若い世代ほど可処分時間を資格のための勉強や、そうでなくとも関心のあることについての読書などに費やしているという。それはそれで率直にすごい、と思う。僕らロスジェネ世代は可処分時間になにをやっている? ゲームかパチスロか酒、あるいはそれと五十歩百歩のことばかりだ。

 だがエリアーデに言わせれば、それがなんであれ娯楽に没頭している時間こそが〝時間のなかへ転落〟していない、本来的な、聖なる時間なのである(ちなみにエリアーデが例として挙げているのは映画や大衆向け小説だ。彼の時代にはコンピューターゲームや動画サイト、ポルノ、リプバといったものはなかった)。
 ハロルド・シェクターはこの話を次のように締めくくっている。

 ようするに、エリアーデが指摘しているのは、普段「愚かな現実逃避」だとか「価値のない時間の浪費」だとばかにされているこうした営みが、じつは、人間がまさに根源的に欲しているもの、つまり、「死に到達する非情な成り行き」から逃げ出して、「時間が止まっている」ところに行きたいという切なる願いの所産であるということだ。

シェクター、同書

 そんなわけで母が、余命数年という時に「日本のむかしばなし」や「古典落語」や「PUFFY」を求めたことにはすっかり納得がいったのだった。

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 さて、以上のことから、なにか実践的なアイデアが得られるだろうか。
 ちょっと関係あるかないかといえば微妙だが、最近僕は「中断耐性」ということについて考えている。
 僕は仕事で自己実現するタイプではないし、資本主義体制下では労働は疎外――エリアーデの言葉でいえば《非聖化》――されているので、そもそも仕事で自己実現が可能だとも、目指すべきとも思っていない。もちろん社会における勝者はいるが、だからといって勝ち馬の少ない、またきわめて不平等なゲームであることに変わりはない。したがってあくまで社会内における成功者になれという言説には批判的だ。お前が成功したからなんだっていうんだ? 黙れ!
 となると革命家――は言い過ぎだとしても社会運動家になるか、或いは酔生夢死、なんでもいいから夢中になれることに没頭して人生をやり過ごすかの二択ということになるが、まあこれはすぐに結論は出せない(かつてのように「どちらの立場かはっきりしろ」と突き詰めるようなものでもないかも知れない)。

 そんなわけで僕はプライベートな時間を充実させたい、と思うのだが、ここでいう「充実」とは資格のための勉強とかそういうことではなく、とりたてて何の役に立つわけでもない娯楽、言ってみればアヘン的な娯楽であることは、ここまでの話の流れからわかっていただけると思う。

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 エリアーデにしたがい、なんでもいいから夢中な、Timelessな時間を過ごすことが大事だとするならば、そこに挟まってくる仕事やしがらみ、庭の草刈りや確定申告(父は草刈りが楽しいと言っていたが、ひょっとして確定申告が楽しい人もいるのか?)などの「本来的ではない時間」から、速やかに「本来的な時間」へ意識を切り替えるような精神的トレーニング、つまり生きるためにやむなき時間を極力精神的省エネモードで過ごし、自己実現だとか社会内における地位といったことを内省せずに、可処分時間に入ったら瞬時に夢中になれるものに意識を向けること。それを僕は「中断耐性」と名付けてみた。
 ジョナサン・ゴットシャルは、『ストーリーが世界を滅ぼす』において次のように述べている。

 もちろん、心がさまようのはけっして悪いことばかりではない。しかし幸福感を追い求めるときの私たちは、もっぱら大いなる饒舌を黙らせるような体験を追い求めている。私たちにとって快楽を感じる状態とは、疲れも知らずに語り続ける内面のモノローグに一時的に猿ぐつわをかませることに等しい。精神的な苦痛をやわらげ快楽を高めるために私たちが求めること――セックス、映画、夢中になれる会話、スポーツ、ドラッグ、ビデオゲーム、マインドフルネス瞑想、時間を忘れるTikTok浸り、どんなことであれフロー状態(「ゾーンに入った」感覚)――を、私たちは主に頭蓋骨という監獄から仮出所させてくれるからという理由で求めている。何がどうあってもしゃべるのをやめない同室者と一緒に一生閉じ込められているような、あの感覚から逃れるために。

ジョナサン・ゴットシャル『ストーリーが世界を滅ぼす』
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 精神医学においては、内部意識状態と外部意識状態では、内部意識状態(まさに人生の意味だとか自己実現だとかについてあれこれ内省している時間)が長いほうが抑鬱状態になりやすいと言われている。ゴットシャルのいう「大いなる饒舌を黙らせる」「内面のモノローグに猿ぐつわをかませる」というのは、内部意識状態から外部意識状態への移行を、娯楽の力を借りて意図的に行なおうとすることだ。
 これとさきほどのエリアーデの話を併せて考えると、やはりますますしじゅう何かに夢中になってるに越したことはないな、と思えてくるのである。

 酔生夢死でほんとにいいの? ということについては僕にはまだ結論できない。が、呪いのようにまとわりつく「有意義」とか「充実」という概念からもう少し自由になるべきなのではないか。あの頃の母ほどは死が差し迫ってはいないものの、いずれ死ぬ身としては、そのような思いが日増しに切実になってくるのでした。

 さてだいたい今日はこんなところです。それではまた(・ω・)ノ

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