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トマソン

 両親がトマソンを初めて家に連れてきたとき、おれはまだ小学生だった。どこのおじさんを拾ってきたのかと思ったが、それはおじさんではなくてトマソンだったのだ。
 トマソンはリビングの隅に専用の椅子を置いてもらい、日がな一日そこに座って与えられた豚骨を齧っている。おかげでリビングにいると常にゴリゴリという音が聞こえるため、おれはあまりリビングに寄り付かなくなった。
 兄はトマソンによく話しかけていたが、トマソンは一言も返事をしなかった。唇の端から涎を垂らして豚骨を齧っているだけだった。二階の自室にいても、兄の「ねえねえ!」という声はおれの耳に届いた。
 ある日、リビングから父の怒鳴り声がした。普段声を荒げるようなひとではなかったから驚いた。一階に下りてみると、父が兄を殴っていた。母は泣いていた。床にはスーパーで買ったと思しき鶏肉の塊が落ちていた。
「豚骨以外も食うのか知りたかったんだよ」
 兄は泣きながら言った。兄はその夜のうちに父にどこかに連れて行かれてしまい、そのまま帰ってこなかった。
 母はおれに「悪い子はトマソンにされるのよ」と言い、俺をひどく恐怖させた。ではリビングにいるこのトマソンも、元はどこかの「悪い子」だったのだろうか。もっとも尋ねたところでトマソンは何も答えないし、ただ豚骨を齧っているだけだ。ゴリゴリゴリゴリゴリゴリゴリゴリ。
 そのうち母のお腹が大きくなり始め、おれは妹ができるのだと聞かされた。兄がいなくなってから寂しかったので、嬉しかった。
 妹はハロウィンの前日に産まれた。体重が少なく、ひと月近くも入院していたが、その後はすくすくと育った。おれは年の離れた妹を可愛がった。
 物心ついたときから妹はトマソンがいるのが当たり前で、大きくなると友達の家にトマソンがいないことを不思議に思い始めた。
「トマソンがいないとすごく静かだよね。みんなよくあんなとこに住んでるなって思っちゃう。落ち着かなくない?」
 トマソンは相変わらずおじさんの姿で可愛さの欠片もなかったが、妹は十歳になると、トマソンの豚骨を交換する係をやりたがった。母は渋ったが、父は「責任が持てるならやってみなさい」と言った。それからトマソンに豚骨をやるのは妹の役目になった。
 中学生になると、トマソンに着せているスウェットや下着を替えるのも妹が率先してやり始めた。妹は「新しいシャツ〜」とニヤニヤしながらトマソンの写真を撮っていた。
「ねぇ兄ちゃん、見てみて」
 見せられたのは、妹のSNSだった。
『いいトマソンですね!大事にされているのがよくわかります』
『青いシャツがよく似合いますね。おばあちゃん家にいたトマソンとよく似ていて、懐かしい気持ちになりました』
『かわいい〜! うちのトマソンも座り型です』
 三桁に近い「いいね!」と、好意的なコメントばかりがついていた。
 落ち込んだとき、妹はトマソンの隣にしゃがんでじっとしていた。嬉しいとき、妹はトマソンの前でぴょんぴょん跳ねてはしゃいだ。どんなときもトマソンは黙って豚骨を齧っていた。ゴリゴリゴリゴリゴリゴリゴリゴリ。
 転職を期におれは家を出た。今更だけど兄を探そうと思った。兄のことは家では禁句になっていて、妹はおそらく兄がいたことすら知らない。そんなの絶対によくないことだと思った。
 アパートを探すため、おれはいくつか不動産屋を回った。最初に入ったところの営業マンは「この物件はトマソンがついていますよ」と言ってカウンター越しににこっと笑った。おれはすぐにその店を出た。
 仕事をしながら兄を探した。兄がいなくなってからもう十数年が経っている。容易なことではなかった。しかしある日、合コンでたまたま出会った女の子に「三吉くんて、うちのトマソンに似てるかも」と言われた。そのせいか、彼女は好意的な目をおれに向けていた。
「写真ある?」
「あるよ」
 彼女はおれにスマートフォンを見せてくれた。年を食ってはいたが、兄だということがすぐにわかった。おれとさほど年が変わらないはずなのに、すっかり中年以上のおじさんの顔になり、緩んだ口元に豚骨を咥えていた。
「ほんとだ」と言うと「今度見にくる?」と聞かれた。おれはうなずいた。ついでに妹のSNSを見せると、彼女は「いいトマソンだね!」と、お世辞ばかりではなさそうな様子で絶賛した。
 数日後、おれは彼女の家を訪ねた。突然やってきた見知らぬ男を、彼女の両親と姉はやたらと歓迎した。
「ほんとだ似てる!」
「あらぁ、イケメンじゃない」
「すごい偶然だな」
 案内されたリビングは整然と片付けられ、生花と家族写真が飾られていた。隅には椅子が置かれ、トマソンとなった兄が豚骨を齧っていた。歯が削れ、牙のように尖っている。ゴリゴリゴリゴリゴリゴリゴリゴリゴリゴリ。
 おれは小さな声で「兄ちゃん」と呼びかけた。兄は返事をしなかった。もう完全にトマソンになってしまったんだなとおれは思った。涙の一滴も出ず、何の感慨も湧かず、ただとっくにネタバレされていた本の結末をようやく読んだというような気持ちがした。
 彼女がおれの手をとった。
「いいトマソンでしょ」
 そう言って、おれの手をぎゅっと握りしめた。
「私たち、運命だと思うの」
 気がつくとおれの外堀は完全に埋まっていていた。来年気候がよくなるのを待って、おれは彼女と結婚式を挙げることになっている。おれの家族は大喜び、中でも妹はお姉ちゃんができると言ってはしゃいでいる。
「お姉ちゃんのトマソン、本当に兄ちゃんに似てるよね」
 スマホに送られてきた写真をおれに見せる妹は至って無邪気で、両親はその様子をただただ微笑ましそうに眺めている。
 似ていて当然だよ、こいつはおれと、お前の兄なんだから。何度もそう教えてやろうとしたけれど、そのたびに舌が乾いたようになって動かせなくなる。
 結婚式に使う写真を探すため、ひさしぶりに足を踏み入れた実家のトマソンは少し老けたように見えた。相変わらず豚骨をゴリゴリゴリゴリゴリゴリと齧っていたし、何も言わないのもいつも通りだった。
 突然おれの脳裏に、(こいつは未来のおれの姿なんじゃないか)という考えが過ぎった。豚骨を齧るおれは滑稽だった。笑いがこみ上げてきた。
 家族と婚約者が困惑した顔で見守るなか、おれは息が切れるまで笑い続けた。

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