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この感情をこの手であなたに渡せたら

自分の感情をうまく相手に伝えられない。

「わたしはこう感じたの」ということに固執してしまって、「そういうつもりではなかった」と言われても「でもつらかった、かなしかった」と返すことしかできない。

たぶん感情のコントロールも苦手なのだと思う。だから相手から、そうじゃないんだよ、あなたの勘違いだよ、と言われても、一回感じてしまったつらさやかなしさをなかったことにできない。

親はわたしを大切に育ててくれたと思うけれど、わたしは親の顔色を伺う子どもだった。ちょっとくらいなら具合が悪くても黙っていたし、嫌なことがあっても親にそれを話せなかった。どうしても話そうとすると緊張して、変な汗をかいて、涙まで出てくる始末だった。
自分の感情、とくに負の感情を相手に伝えるのが極度に苦手なのだ。仮に相手にそれを伝えて、相手がそれを軽視したら、受け入れてくれなかったら、と思うととてもこわくて話せない。

夫はわたしが自分の考えを言わないことをひどく嫌がって、なんでも話してほしいという。でもわたしはその訓練ができていないから、きちんと伝えられなかったりする。一度わたしが口にしたことは、いや、感じたことは、夫であっても否定してほしくない。「そういうつもりじゃなかった」というのは、否定ではなく、誤解を解くための言葉かもしれない。でもそれを、わたしは「そう感じた」ということの否定だと認識してしまう。

そうじゃない、そうじゃないんだよ。

頭では分かっていても、心がついていかない。
つらかった、かなしかった、と言ったら、つらかったね、もうだいじょうぶだよと慰めてほしい。それはべつに相手の本当の意図をないがしろにしていることと同義ではないと思う。わたしがあなたの意図を受け入れるかわりに、あなたもわたしの感情を受け入れてほしい。それはもしかしたら傲慢なことかもしれないし、甘えかもしれない。

あなたがあなたの意図を尊重するのと、わたしがわたしの感情を尊重するのは、同じことではないのだろうか。

わたしが「あなたの意図がどうであれ、わたしはそれを辛いと感じた」という話をするとき、それはあなたの意図を無視しているとか、あなたの考えに興味がないということではない。

辛いという感情に支配されているとき、いったいわたしはどうするべきなのだろう。

それを押し殺すことはきっとあなたの望むところではない。でもそれをそのまま伝えることも、きっとあなたは許してくれない。

何がつらいのか、どうしてつらいのか、それを考える前に、つらさを癒してほしいと思うのは傲慢だろうか。わたしの頭は感情を無視して理性で考えられるようにはできていない。その訓練が必要だというのは分かるけれど、それは同時にわたしがそういう人間であることの否定にならないだろうか。
わたしはわたしのままでありたい。でもこの生きづらさから解放されたい。
それは矛盾する願いかもしれない。でも、それでも。

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