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全文公開 『マーチング・ウィズ・ゾンビーズ ぼくたちの腐りきった青春に』第2回

友達なんていらない。彼氏も彼女もいらない。ぼくたちは居場所がほしい。
ゾンビがいたってかまわない。
どこか居場所を求めてゾンビのように彷徨う若者たちの、ポップでせつない青春小説。

第4回ジャンプホラー小説大賞、初の金賞受賞作『マーチング・ウィズ・ゾンビーズ ぼくたちの腐りきった青春に』全文公開第2回。

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それではお楽しみください。

マーチング・ウィズ・ゾンビーズ ぼくたちの腐りきった青春に 第2回

 退院の日。
 荷物をまとめた後、僕は母さんと一緒に担当医に挨拶へ向かった。いつもの診察室で出迎えた白衣の彼は、僕に二つのことを約束させた。
 一つ、〈ゾンビの会〉には絶対に参加すること。
 二つ、いつでも安楽死できることを忘れないこと。
 これでもかってくらいに頭を下げる母さんが恥ずかしくってさ、僕は外で待っていると言い、先に診察室を出ることにした。
 たぶん、先輩はこう思っていると思う。あー、これ、美也(みや)ちゃん看取るお涙頂戴の感動ストーリーだって。よく旬の女優使って実写映画化されるあれだろって。
 正直なところ、僕もさ、美也ちゃんと手を繋いで鍵盤の上を跳ねるシーンとか思いついてたよ。真実を書いていくと宣言しておく、なんてカッコよく前置きしてたけど、先輩との約束なんて破ったところで痛くないしね。でも、美也ちゃん脚ないじゃん? 僕、ゾンビじゃん?
 だから次に、江波奈美(えなみなみ)さん──エナさんが出てくる。先輩とはほとんど接点ないけどさ、文芸部部室に少しだけ居座っていた女性がいたでしょ? あの人だ。彼女が部室に来た理由は、まあ、白石(しらいし)や水口(みずぐち)と同じく、持て余したモラトリアムのせいだっていうのは、先輩もよく知っているよね。
 母さんが戻ってくるまで待合所で時間を潰そうと思っていた僕はさ、中庭で虐められている美也ちゃんの姿を見つけてしまったんだ。
 車椅子に乗っている美也ちゃんは、肩を掴まれ乱暴に揺さぶられていた。背中を丸めてアームサポートを掴みながら必死に耐えている美也ちゃんの姿を見ていたらさ、浦島太郎で亀が虐められてるシーンが思い浮かんだよね。
 虐めているのは少年たちではなく、一人の女性。
 前髪ぱっつんの黒髪に、赤いメッシュを入れた彼女は、どこで売っているんだろうと不思議に思うほどグロテスクな模様のパーカーを羽織っていた。黒のミニスカートに黒のニーソックス。首にはチョーカー。もちろん黒。
 彼女の左手首には包帯が巻かれていた。ご丁寧に、赤い血が滲んでいる。
 そうだよ、先輩。彼女がエナさんだ。
 美也ちゃんには申し訳なかったけど、僕は母さんを呼びに診察室へ戻ろうとしたね。
 でもさ、エナさんの姿に、僕はあの埼玉の廃病院を訪れる、その二時間ほど前の出来事を思い出していたんだ。

 あの日、もうすでに日が暮れた後の文芸部部室に集まった僕、白石、水口の前に、先輩は一枚のハンカチを見せつけたよね。そこに刻まれた〈HARUNA〉という刺繍に、僕らは鼻の下を伸ばしていた。
「女子更衣室に置かれた陽沢春奈(ひざわはるな)のバッグから盗んでもらったものだ。そんだけで五千円だぞ、五千円。なんか俺があいつのこと好きみたいな感じに思われたし。そう考えるとだ、どんな匂いがするのかは気になるところだよな。……誰から聞けばいい?」
 僕らは全力で春奈ちゃんのハンカチを奪い合った。
 ハンカチは僕らを嘲笑うように三つの手からすり抜け、悪戯な風にのって部室の窓から外へと飛んでいった。
 落胆する僕らに、先輩は「んじゃ、ゾンビでも見に行く?」と言ったけどさ、あの時、僕らが誰一人としてハンカチを拾いに行かなかったのは、べつにハンカチが行方不明になったわけじゃなかったんだ。
 あろうことか、ちょうど部室棟の外を歩いていたエナさんの足下にハンカチは舞い下りた。彼女はそれを拾い上げ、僕らを見上げて鼻で笑い、ポケットにしまってそのまま歩き去っていった。

 そんなわけで、僕は美也ちゃんを助けるために中庭へ侵攻した。ついでにハンカチを返してもらおうとね。
「返してよ、私の薬!!」
「嫌です!! 私が処方されたんです!! 最初から、あなたのじゃありません!!」
 エナさんは美也ちゃんから薬をひったくろうとしていた。
 いや、まあ、この時の僕はエナさんの名前を知らなかったよ。ただ、人として腐っていることはすぐにわかった。
 美也ちゃんが僕に気付くと、エナさんも「むっ」とわざわざ鼻を鳴らしてこっちに顔を向け、「あっ」と目を丸くした。
 ここに来て、しまったと気付いたね。女子のハンカチを奪い合っていたなんて美也ちゃんに知られたくなかったからさ。彼女の前では常にジェントルマンでいたかったんだ。
 でも、もう、後戻りできないじゃん?
「僕らを虐めるのはやめてください」落ち着いた口調で僕は言う。「人権団体に訴えますよ」
「いいわ。私は公正取引委員会に訴えるから。皆の薬を独占してるんだもん」
「これは私のです」
 美也ちゃんは胸に抱いたお薬袋をギュッと守った。
 エナさんは「どうしてよ」と美也ちゃんを揺さぶる。
「この前まで、いらないからあげるって言ってたじゃん。自分の言葉には責任持って」
「今はいるんです」
 後から聞いた話だけど、美也ちゃんは僕と血の契約を交わす前まで、安楽死の審査をしていたらしい。後から聞いたばっかだな、おまえ、って言いたい気持ちはわかるけどさ、まあ、あまり気にしない気にしない。
 ふと、エナさんが手を止める。騒ぎに気付いた看護師が何事かと院内から顔を覗かせていた。
「勝手にすれば。どうせ死ぬんだから。足掻いても惨めになるだけよ」
 エナさんは僕らに背を向け、すたすたと歩きだした。
 僕は美也ちゃんと顔を合わせてから、エナさんを走って追いかけた。
「すみません。この前、ハンカチ拾いませんでした?」
「ああ、これ?」
 エナさんが取り出したハンカチには〈HARUNA〉という刺繍が施されている。
「よかったぁ。それ、友達のなんです。飲み会で忘れていったみたいで、ずっと探してた。……っていうか、あれからずっと持ってたんですね」
「届けようと思ったけど、学校行く機会なかったからね。私、忙しいし」
「じゃあ、代わりに届けときますよ」
 せわしないビジネスマンみたいに足を止めることなく、エナさんはハンカチを持ったほうとは反対の手を差し出してきた。
「なんですか、その手」
「星宮(ほしみや)と同じ薬貰ってるんでしょ?」
「こっちは死ぬんですよ?」
「皆、常に死と隣り合わせなの。メメント・モリ。ラテン語よ。わかる?」
 僕は仕方なくポケットからお薬袋を取り出した。
 エナさんは僕からひったくったお薬袋の中身を覗き込み、ここで初めて足を止めて落胆の息を吐いた。
「痛み止めは?」
「……まだステージ1なので、必要ないんじゃないんですか?」
 エナさんに投げ返されたお薬袋を、僕は慌ててキャッチした。

 べつにつきまとうつもりはなかったよ。でも、僕には春奈ちゃんのハンカチを手に入れるという重要なミッションがあったんだ。
 気がつくと、僕は遊歩道を歩きながらエナさんに春奈ちゃんのことを話していた。
 そうそう。先輩も僕と春奈ちゃんとの出会いを知らなかったね。
 まあ、出会いというほどの出会いはしていなかったんだけどさ、エナさんにも話したことだし、先輩にも話しておくよ。
 春奈ちゃんと初めて言葉を交わしたのは、大学に入学したての頃。僕が学食で一人寂しく昼食を摂っていた時のことだ。「ここ、いい?」という声に顔を上げた僕に、笑いかけてきたのが春奈ちゃんだった。
 当時の彼女はまだ友達がいなくて、悲惨な学生生活に片足を突っ込んでいる最中だった。
 でも、わざわざ僕の正面に座らなくてもいいじゃん? 空いている席は他にもたくさんあったんだからさ。もしかしてぼっちな同族を探しているのかななんて期待したけど、彼女は喋りすぎた。
「サークルなに入るか決めた?」「履修登録、ネットでできればいいのにね」「前期は何科目履修してる?」「私は結構、奮発しちゃった」
 僕はテキトーに返答し、食べたらすぐに席を立って次の講義へと向かった。女子と話すことには慣れていたけど、僕は顔面偏差値を学力偏差値が上回るメン。見知らぬ女子が話しかけてくるなんて、宗教とかマルチ商法の勧誘以外にあり得ないじゃん?
 その後、春奈ちゃんはダンス部に入部し、一発逆転、充実したキャンパスライフをエンジョイし始めた。僕とは遠い世界の住人になったのだ。
「え、一回しか話してないじゃん。それって、好きって言うの?」
 先輩も抱いているだろう疑問を、エナさんは口にした。
 足休めに、僕らは近くのカフェテリアに入っていた。チェーン店が嫌だというエナさんの我儘で、やっとのこと商店街に見つけたものだ。テラス席に座ったんだけど、向かいの肉屋から油の臭いが届いてさ、コーヒーを飲むには適していなかったね。
 僕は肩をすくめてみせた。
「そんなのどうだっていいじゃないですか。ハンカチ返してくださいよ」
 エナさんはアイスカフェラテをストローですすってから、左手首の包帯を解いた。生々しい傷痕が並んでいたね。目を逸らそうとした僕だったけどさ、エナさんはわざわざリストカット痕を一つずつ指さしていくんだ。
「これが良吾。広告代理店に勤めているんだって。実際はフリーターだったけどね。これが隼人、バンドマン。これが隆二で、これが直樹。皆、今、どうしてるんだろう」
 くそどうでもいい話だったけど、彼女は春奈ちゃんのハンカチを持っているわけじゃん?
「……タトゥー的なあれですか? 恋人の名前を入れる」
「どうだろう。最初はそうかもだったけど、今はもうなんていうか、惰性? 一区切りつける感じ。いつまでも昔の関係に縛られたくはないから、私。前に進めないでしょ?」
「過去に囚われてはいけない。勉強になります」
「あっ、ニワカと一緒にしないでね。これをつける時はちゃんと死のうとしてるから」
 それだと前には進めないのでは、と思った僕だったけど、エナさんはテーブルに肘をつき、手のひらに顎を乗せてため息をついた。
「寂しくなると死にたくなるでしょ? でも、死ぬ時は誰だって一人じゃん。これ、人類最大の難題だと思うんだよねー。どうにかならないかなって、私ずっと考えてる」
「集団自殺に参加すればいいじゃないですか。ネットで仲間募って」
「全く面識のないやつと一緒に死んで、それで慰められる程度の孤独とか、笑えるわ」
 僕はとりあえず愛想笑いを浮かべたよ。納得するように、深く頷いてみせてね。
「藤堂(とうどう)は死ぬんでしょ? いつ?」
「ゾンビの腐敗には個人差があるんです。ID細胞のDNAは人それぞれだから」
 エナさんは春奈ちゃんのハンカチを振ってきた。ちょっとだけ、いい匂いがしたね。
「一緒に死んでくれるんだったら、これ、あげてもいいよ」

 ひょんなことからモテキ到来。
 女子中学生には殺してと言われ、女子大生には一緒に死のうと言われるんだからさ。
 まあ、僕は本気にしていなかったけどね。
 だって、僕自身、誰かを殺すつもりも、自分から死ぬつもりもなかったんだから。

 ゾンビに噛まれてなにか変わった? そんな疑問はすぐに忘れた。ゾンビ患者として初めて乗り込んだ満員電車では息ができなくなるほどぎゅうぎゅうに押し潰されたし、大学構内で誰かが話しかけてくることも期待したけど一回もなかった。
 大講義室のいつもの席。窓際の中間辺りに座った僕の隣で、白石も無防備に机に突っ伏して眠っていた。噛みついてやろうと思ったけどさ、廃病院にいた野良ゾンビと違い、僕は正規の治療を受けるゾンビ患者。勝手に腐っていくだけで、誰かを道連れにする感染力はない。
 講師が黒板にチョークを走らせている間、ドアの閉まる音が聞こえ、僕は廊下側へと顔を向けた。
 エナさんは僕と目が合うと、そのまま無視して端っこの席に座り、スマホを弄り始めた。
 先輩はもう知っていると思うけど、エナさんは一年留年し、一年休学している。年上だけど、僕と同学年。この必修科目も履修登録しているものの、一度落としている。なにが言いたいかって言うとさ、彼女がこの講義に顔を出したのはこれが初めてだったから、今年も留年することは決まっていたってこと。
 えっ、おまえ、そんな関係性であだ名つけてんの? 距離間おかしくね?
 なんて言いそうな先輩に言い訳すると、最初は僕も〈江波先輩〉と呼ぶようにしていたんだ。自然と「さよなら」したかったし、牽制する感じでね。……でも、エナさんはこう言った。
「先輩とかつけないで気持ち悪い。江波さんとかもやめて。この名前に縛られたくないし。いや、下の名前で呼んでいいのは親しい人だけなんで。……シロさん? へー、バスケではコートネームっていうのがあるんだ。いいじゃんいいじゃん。……待った。あんた、それ、このミルクから取ってるでしょ。私に白い要素ないし、その呼び名って現代社会では危険だから。……あー、うん、もうそれでいいよ、エナさんで。私もべつにこだわらないし」
 もちろん、あのカフェテリアでの話だ。
 そんなわけで講義が終わると、エナさんは僕と白石に勝手についてきた。

 二限目が空いていたので、僕は白石と一緒に部室棟へと向かった。
 階段を上がって、二階の奥。様々な部活や研究会の張り紙が貼られたそのドアには、一番目立つ場所に〈文芸部〉と書かれた手書きの紙が貼られている。この数多の部活が使用する部室を占拠したと宣言するため、先輩が貼ったものだ。
 狭苦しい室内には長テーブルが一つ置かれ、雑多なパイプ椅子が並んでいる。棚には手芸部や書道部、名前も知らない部活の遺品が埃を被っている。ワシミミズクやミュシャの絵のポスターもその一部だ。
 先輩はいつものように窓を背にして、分厚い小説を開いていたよね。相変わらず田舎のラッパーみたいな汚い格好をした先輩は、僕らについてきたエナさんに目を細めた。
「あの人は?」
 席に着いた僕らがテキトーに時間を潰していると、エナさんは先輩を指さした。
 彼女がいることになんら疑問を抱かない白石は、週刊少年ジャンプを読みながら答える。
「松尾(まつお)先輩。文芸部部長。あ、俺は部員じゃないですよ。ここ、正確には空き部屋」
「ふぅん。怒ってるの?」
「今年、除籍されるんです。単位が足りなくて」
 なんて僕が言うと、白石がどうでもよさそうに、
「撤回されるまで、沈黙の掟を貫くとか」
「抗議の相手、間違ってない?」
 エナさんが顔を向けてきたので、僕は肩をすくめた。
「先輩、遠藤周作が好きなんです」
「好きじゃねーよ」
 すかさずの先輩のツッコミに、エナさんは「えっ!!」と驚いた。
 先輩が顔を赤らめたのを僕は知ってる。
 まあ、安心してよ。先輩がワナビだってことは誰にも言ってないからさ。
 ちょうどいいからここで謝罪を一つ挿入──ほら、先輩はいつも、僕と二人きりになると自作の小説を持ってきて、それを僕に読ませてきたじゃん。そして照れくさそうに、されど真剣に、「どう?」と訊いてきた。それに対する僕の答えは決まっていた。
 ──静謐な文体に重厚なストーリー。ペダンチックな薀蓄が紡ぐ耽美的な世界観。僕には評価不能です。新人賞に応募してみたら?
 先輩も決まって、「一次落ち。マジでわけわかんねえ」と言ったよね。
 べつに、先輩の書いた小説を読まされることに鬱陶しさを感じていたわけじゃない。あの時の僕はさ、小説家を目指す先輩の姿勢が、羨ましくもあり、そして妬ましかったんだ。だから、すでに用意していた感想を述べ、先輩の熱意を蔑んでいた。
 ええ、まあ、そのことについては、不徳の致すところでして……まっ、いっか。
 時間を元に戻そう。
 僕は目の前のテーブルに置いた春奈ちゃんのハンカチに目が釘付けだった。これ、どうしようってことばかり考えていた。
 白石が僕に顔を寄せ、あの整髪料の匂いを漂わせながら声を潜める。
「で、誰?」
「エナさん。さっき話しただろ。メンヘラだぞ。二つ年上だし、法的にも問題ない」
「悪いけど、俺、あの人のことは下に見てる」
「全部、聞こえてるんですけどー」
 エナさんが挙手するが、白石は盛大に無視してテーブルの上のハンカチを顎で示した。
「とにかく、それを渡せ。未来ある俺に可能性を託すんだ」
 僕は白石にじと目を向けてから、ため息をついてハンカチに視線を戻した。
「とりあえず告白してくるわ。これ渡すついでに済ませてくる」
「まだ連絡先も知らないだろ?」
 白石が呆れて言うと、エナさんは面白そうに笑う。
「情けでワンチャンあるんじゃない?」
「自分、ゾンビですって?」白石は鼻で笑う。「そりゃ、断れないな」
「出てけよ、帰宅部……」
 僕がぼやくと、パンッと乾いた音が部室に響き渡った。
 勢いよく本を閉じた先輩は、僕に向かって親指を突き立ててみせたよね。
「どうせ死ぬんだ──予行演習だと思え」

 二限目が始まっているというのに、構内には多くの学生が行き交っていた。モラトリアムにどっぷり浸かる僕らは総じて暇なのだ。
 白石とエナさん、そして僕が隣り合ってベンチに座っていると、教科書やノートを抱えた春奈ちゃんが第四講義棟から出てきた。一緒にいるのは彼女の所属するダンス部の連中だ。つまり、髪を染めたリア充系女子グループ。
 春奈ちゃんには、去年、僕に話しかけてきた時のモブっぽさがなくなっていた。栗色に染めた髪に緩やかなパーマをかけていて、服装も、なんかキラキラするっていうか、いい匂いがしそうだった。
 友人たちとキャピキャピ話す春奈ちゃんは、僕らを見ることなく、そのまま女子更衣室のある体育館へと向かっていった。
「行っちゃったぞ」と、白石。
「え、どれどれ?」
 首をキョロキョロ回すエナさんをよそに、僕は立ち上がり、春奈ちゃんの後を追った。
「陽沢さん!!」
 僕が呼びかけると、春奈ちゃんは足を止めて振り返った。
 この瞬間、ジェーン・オースティンが描く恋の風が吹き抜けたよね。僕らを中心に、辺り一面、イギリスの田舎街を囲う青草がぶわっと広がった。
 いつも明るい彼女は、ツイッターでもポジティブなことばかり呟く裏表のない性格をしていて、学生生活のカノジョというより、結婚生活の理想のお嫁さんと言ったほうが的確だ。あまり顔に特徴がないとこがさ、またいいんだよね。
 ただ、思うんだ。僕は本当に春奈ちゃんのことが好きなのかって……。
 そう考えたら最後、青草は枯れ果て、世界はいつもの構内に戻っていた。
 僕はこれをフィッツジェラルドの法則と呼んでいる。
 頭で描いた出来事がさ、次の瞬間、すぐに色褪せて陳腐なものに思えてしまうんだ。
 このフィッツジェラルドの法則に、僕は小学生の頃から悩まされ続けていた……まあ、それは後で書いていけばいいか。
 あっ、ハンカチはちゃんと春奈ちゃんに返したよ。

 僕らは部室棟の屋上へと場所を移した。
 白石とエナさんに背を向けて、僕は双眼鏡を覗き込んでいた。
 この双眼鏡は、ほら、去年、鳥類研究会の仙人みたいな会長がさ、部室に残していったやつだよ。この歴史ある鳥類研究会を君たちに引き継いでもらいたい、とか言って、他大学の院生になった人。ああいう押しつけがましいやつ嫌いなんだよなって、先輩は譲り受けた会長の権力を行使し、その長らく続く歴史に終止符を打ったよね。恨みを買いたくない僕は、鳥類図鑑を売り払った先輩から、この双眼鏡だけは死守しておいたんだ。
 双眼鏡の向こうでは、講義棟のガラスを鏡に春奈ちゃんたちダンス部が練習している。
 彼女たちの煌びやかな青春に対し、白石とエナさんは不幸自慢大会を開催していた。
「高校生の時、告白されたんです。名前も知らないやつからいきなりラインが来て、断ったら、次の日にはハブ。こんなのテロじゃないですか」
「うわぁ、贅沢な悩み」
「もう、俺、誰も信じられねーよ」
「そういうやつって、結局、皆が憧れてる白石が好きなの。モデルやめれば?」
「それは無理。これほど楽なバイトは他にないし」
 本気でモデルや俳優を目指してるやつに、今の言葉を聞かせてやりたかったよね。
「見て見て」
 エナさんが白石にスマホを手渡した。……いや、まあ、僕の背後でのやり取りだけどさ、なにやってるかは気になるわけで。
「……いや、これ見せてどうしろと?」と、白石。
「これ、私。元カレにアップされた」
「リベンジポン──」
 白石が言葉に詰まると、エナさんはどうでもよさそうに笑う。
「ポルノね。振られたの私だけど」
「……カメラを止めてもらえなかったんですね」
「四十分間長回し。藤堂も見ていいよ」
「告白もできない男なんてほっとけばいいんです。どうせ腐ってすぐに……あっ、藤堂!! おまえ、そこから落っこちれば幸せじゃね?」
 モラルの欠片もないことを平気で言ってくる白石だったけど、僕は気にしなかったね。
 だって言い返せばさ、僕もこの二人と同類になっちゃうじゃん。
 ああ、二人が僕を見下しているように、僕もこの二人を見下していた。
 そして僕は双眼鏡の向こう──春奈ちゃんたちとはかけ離れた、校庭の反対側を見下ろしていた。
 なんか、水口がさ、スマホで音楽を流しながら一人で踊っていたんだよ。

「おまえはもう助からねーよ。泣こうが喚こうが、結局、最後はあの廃病院にいたゾンビみたいになっちまうんだ。そん時は俺が息の根止めてやる。コツはさ、手首を固めんの」
 昼休み。食堂。
 水口を先頭に、僕、白石、そしてエナさんでトレイを手におかずを選んでいた。
 水口は飄々と続ける。
「恨んで噛みついたって無駄だぞ。もう、ワクチン接種したからな」
「いや、もう、この身体にTLCウイルスはないし」僕は言ってやった。「ゾンビ化ってID細胞による侵食だからさ。噛みつくくらいなら殴ってる」
「じゃあ、誰にもうつせないってこと? 哀れー」
 エナさんが嘲笑してくる。お薬大好きな彼女も、すでにワクチン接種を済ませていた。
「無駄に病院で二時間も待たされたじゃんか」と舌打ちする白石も、ワクチン打ったみたい。
 会計を済ませ、僕らは窓際の空いた席を陣取った。
 水口はから揚げを咀嚼しながら、ポケットから折りたたまれたチラシを取り出した。油まみれの指でテーブルに広げたそれには、大きく〈はなわ祭り〉と書かれている。近くの商店街で開かれる小規模のお祭りだ。
「最後の思い出づくりに、これ出ようぜ」
 水口が指さしたのは、チラシの隅っこに書かれたダンス大会の部分。
 無視しようと思ったけどさ、とりあえず僕は教えてあげることにした。
「それ、キッズしか出ないやつだぞ」
「優勝に一歩近づいたな」
 水口は「へへっ」と笑った。
 白石がチラシを引き寄せ、覗き込む。
「四人以上って、おまえ、友達いんの?」
「だから最後の思い出づくりだって言ってるだろ。ちょうど、四人、揃ってるじゃんか」
 水口は、僕、白石、そしてエナさんを順に指さしていった。エナさんと初対面の水口は、彼女と目が合うと「うっす」と頭を下げた。エナさんはフツーにシカトしたけどさ、水口はなんとも思っていなかった。
「釣り研は去年、焼きそば作ってただろ。軽音はマジックショーやってた。わけわかんなかったからよく覚えてる。この流れだと、今年は完全に春奈ちゃんたちも参加するぞ。俺、流れを読むのは得意なんだ」
 たしかに、この〈はなわ祭り〉にはうちの大学のサークルも協力している。ほら、文芸部もあの鳥類研究会の仙人にさ、テント張り手伝ってくれって言われてたじゃん。先輩は仮病で来なかったし、帰宅部の白石と水口は無関係を決め込んでいたけど、僕はしっかり撤収作業までやり遂げた。
 僕はお茶をすすって、
「おまえ、もう、ラグビー辞めただろ」
「ダンスしたって後悔は消えないぞ」白石は首をすくめてみせた。「おまえがやるべきことは一つだよ、水口。ゴミ拾うんだよ。ラグビー部の誰よりも多く。あいつらの〈はなわ祭り〉の恒例行事を制すれば、その心も少しは晴れる」
 僕はお茶を飲み干し、空になった紙コップを水口のトレイに置いて、力強く頷いた。
「今からゴミ、少しずつ溜めていこうな」
 水口は呆れたように肩を落とした。
「おまえはこのまま死んでいいわけ? 最後になにか、ドカーンと思い出作っとこうぜ」
 水口の腐った言葉は、しかし、僕にAさんから出された宿題を思い出させた。
 ──もし、なにか告げられない想いや気持ちを抱えているのなら、すぐに吐き出すこと。
 ──やりたいことがあったら、臆することなく挑戦すること。
 ──これ、宿題だよ、藤堂くん。
 直接、言葉にはしないけどさ、担当医もAさんも、とにかく安楽死を選ばせようとしているみたいだった。悔いのない人生だと思えるよう、僕を誘導したいみたいだった。
 でも、僕はこの通り、ぴんぴんしているわけで。
 しかも、キッズご用達のダンス大会だよ? 恥を上塗りするようなもんじゃん。
 白石もスマホを弄りだしたとわかるや否や、水口はやれやれと首を横に振った。
「おまえら、ホントあれだな」水口はエナさんを向き、「こいつらに一言お願いしますよ」
 急に話を振られたエナさんは、ふぅ、っと深く息を吐いた。
 僕も白石も、思わずエナさんを見つめたね。えっ、参加するの? ってさ。
 エナさんはリュックを開けると、中から薬容器を取り出した。ほら、ガムのボトルみたいなやつだ。容器からテーブルへばら撒かれた錠剤。色や形が異なるそれらを、エナさんは一つ一つ指さしていく。
「ジェイゾロフト。エビリファイ。ルネスタ。レキソタン。ロゼレム──あんたら、どうせ数年後には連絡も取り合わないでしょ? 一時凌ぎの友達ごっことか、はっ、甚だ笑えるわ。そんな暇があるんだったら、私みたいに一生付き合える友達を作るべきね。この子たちは絶対に裏切らない。ゼッ・タイッ・ニッ」
 エナさんは錠剤を一つずつ、全部で三つ、指で弾いた。錠剤はそれぞれ僕らの目の前へと、一錠ずつテーブルを滑ってきた。
 僕と白石、そして水口は思わず顔を見合わせ、同時に言ったね。
「僕ら、べつに友達じゃないですよ」「俺ら、べつに友達じゃないんで」「……で、誰?」
 エナさんは、もうこれ以上ないってくらいに哀れみを込めた視線を僕らに向けてきた。
 そうだよ、先輩。ダンス大会に出ることになったのは、エナさんが出るって言ったからなんだ。


読んでいただきありがとうございました。
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