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第六十七号「明智光秀と山崎の戦い」

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〓〓今週の歴史奉行通信目次〓〓〓〓〓〓〓


1. はじめに

2.  明智光秀と山崎の戦いー
【本能寺の変後の光秀】
【山崎への道】

3.  明智光秀と山崎の戦いー
【山崎の戦い】

4. おわりに / Q&Aコーナー / 感想のお願い

5. お知らせ奉行通信
新刊情報 / オンラインイベント情報 / その他


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1. はじめに

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さて皆さん、
6/2は何があった日かご存じですか。
そう、本能寺の変があった日です。


今回は
「明智光秀と山崎の戦い」と題し、
様々な角度から、
明智光秀と山崎の戦いを
探っていきたいと思います。


なお今回の記事は、自衛隊の隊内誌
「修親」に向けて書いたものの短縮版です。


この連載は2年間(12回)にわたって
続くのですが、本のタイトルは
『合戦で読む戦国史 野戦十二番勝負(仮題)』
とするつもりです。


この歴史ノンフィクション作品では、
戦国時代に行われた12の野戦
(城郭攻防戦ではない)を取り上げ、
勝因や敗因、
また「どうすれば勝てたか」などを
論じていくつもりです。


この連載では、
全国なのか地域なのかを問わず、
戦国時代の方向性を決めた野戦に絞って
取り上げていきたいと思っています。


では、その第一回の短縮版をお送りします。

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2.  明智光秀と山崎の戦いー
【本能寺の変後の光秀】
【山崎への道】

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「明智光秀と山崎の戦い」

天正十年(一五八二)六月一日、
織田信長から備中高松城を包囲する
羽柴秀吉を手助けせよという
命令を受けた明智光秀は、
一万三千余の兵を率いて
丹波亀山城を出陣した。


その夜、丹波・山城両国の
国境付近にある老ノ坂に
差し掛かった時だった。
右へ行けば備中国に通じる
西国街道に出られる摂津街道、
左へ行けば沓掛を経て
洛中の丹波口(七条通)へとつながる
丹波街道――。


ここで光秀は
「信長公の御前で馬揃え」
を行うと将兵に伝え、左の道を取った。


二日未明に桂川を渡った光秀は、
ここで全軍に
「京に滞在する徳川家康を討ち取る」
と伝えた。
だが光秀が討ち取ったのは、
家康ではなかった。


明智光秀の起こした本能寺の変は、
日本史の流れを変える大事件だった。
そのためか本能寺の変について
書かれた論説は多いが、
その後に勃発した
山崎の戦いについては少ない。
その理由として、兵力差から
「光秀の負けが必然だと思われてきた」
ことが原因だろう。


それでは本当に
光秀に勝ち目はなかったのか。
光秀ほどの頭脳明晰な武将が、
自軍に三倍する敵に
勝ち目のない戦いを挑むだろうか。


今回は発掘調査を元にした最新研究を基に、
明智軍団と山崎の戦いに焦点を絞り、
そこから引き出される光秀の勝算を
探っていきたいと思う。



【本能寺の変後の光秀】

本能寺の変を成功させた後、
光秀が頼みとしたのは、
信長から付けられた寄子たちだった。


織田家には、寄親・寄子(寄騎)制という
大名や武将の間で上下関係を疑似的に作り、
下位者を上位者の指揮下に組み入れる
軍団編制法があった。
畿内方面軍団長の光秀の寄子には、
細川幽斎・忠興父子、中川清秀、
高山重友(右近)、筒井順慶らがいた。


本能寺の変後、まず彼らを従わせることが
光秀の課題だった。
だが光秀には信長を倒した後の
政権構想はなく、
また謀反の大義も明確ではなかったので、
頼みとするのは光秀の実績と
信頼だけだった。


ところが、光秀との間に密な縁戚関係や
人間関係を築いてきた寄子たちは
光秀に味方せず、
また親友の山岡景隆には
安土城へと向かう途次、
勢多の唐橋を落とされた上、
甲賀山中へと逃亡されてしまう。


そもそも光秀が本能寺の変を起こしたのは、
信長・信忠父子がわずかな兵で
京に滞在していることと、
柴田勝家や羽柴秀吉といった
織田軍団の方面軍司令官たちが、
それぞれの手勢を率いて
各地に散っていたことに起因する。


彼らは対面する敵に拘束され、
すぐに畿内に引き返して来られないと思われていた。
その間に光秀は、与党を増やして
畿内に入る各口を
固めるつもりでいたのだろう。


つまり光秀の勝算は、
畿内に敵を入れないことで
内線の利を生かした戦いを
することだった。


内線の利とは、
どこかの口で戦いが始まった時、
そこに予備兵力を派遣して
敵を撃滅していくことで、
畿内を押さえている限り、
臨機応変な兵力の運用ができる。

ところが光秀に与する者が少ないことから、
内戦の利を生かす戦い方が困難となった。

【山崎への道】

さて、本能寺の変成功後に話を戻そう。
光秀は軍資金を確保すべく、
安土城へと向かう。
ところがその途次にある勢多の唐橋を
山岡景隆によって落とされたことで、
光秀は橋の修復に三日間を費やした。


ここで三日も足止めを食らったのが
大きかったが、それでも光秀は
五日には無人の安土城に到着した。
信長から留守を任されていた
蒲生賢秀(かたひで)・氏郷父子は、
信長の妻子眷属を引き連れて
本拠の日野城に退去していた。


ここで光秀は
信長が安土城に貯蔵していた
金銀財宝はもとより、
大量の鉄砲弾薬を手に入れたはずだ。

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