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小説「素ナイパー」第22話

 爽快感のない朝だった。それは昨日の酒や寝不足のせいではなかった。以前にもこんな朝は数度経験したことがあった。寂しさとどうしようもない性欲に負けて、さして好きでもない女性と一夜を共にした時と全く同じ感覚だった。

 そんな時はいつも嫌悪感にかられミューズだった知子との再会を自分の愚行によって引き寄せられなくなるのではないかと不安になった。そして自分の馬鹿さ加減に飽き飽きし後悔を募らせた。
 

 情事に罪悪を感じてしまう者。情事を情事として受け入れられる者。男にはその二種類が存在する。
 後者の男は、寂しさを女性の身体に預けても何ら後悔を持たない。かと言って決してその男が非情というわけではない。行為は行為として割り切る事ができるのだ。そしてそういう男は決して後腐れのない相手を選ぶ。
 直哉は明らかに前者のタイプの男だ。男と女のばかし合いに徹する事ができず、そこに勝手に情を持ちこみ絆される。
 そして相手もその時近くにいるある程度関係の深い人間を選んでしまう。それによってさらに罪悪を深める。相手の気持ちを利用したと・・・。そういう男は元来情事には向いていない。

 ベッドに横たわる女の後ろ姿を眺めながら直哉はいつものように後悔に浸ろうとした。しかし身体をだるくさせる後悔は訪れてはくれなかった。
 その代わりに訪れたのは、達成と失望の間にある言葉にできない感情だった。それが何故訪れたのか直哉には明確にわかっていた。隣に寝ているのがミューズだった知子だったからだ。

 「どこの店?」
 「お店じゃないわ。私の家よ」

 タクシーの中でそう言った知子の瞳が何を見ているのか直哉には見当がつかなかった。そして自分の気持ちも整理がついていなかった。
 ほんの数日前の自分ならこの展開は御誂え向きのはずだった。待ち焦がれていたミューズと再会しその日の夜に結ばれる。そんな想像を何度繰り返した事か。
 しかし彼女を目の前にした時、何か大きな隔たりがあると感じた。決して埋まらない大きな違いがあると。
 自分が彼女を美化しすぎていたのかもしれない。しかしあまりにも彼女は想像の知子とはかけ離れていた。
 

 (会わない方がよかったのだろうか?)

 それでも知子は知子だと自分に言い聞かせた。やっと会えた、待ち焦がれた相手なのだと。

 アッパーウェストサイドにある知子のアパートメントに着くと、二人は無言でタクシーを降りた。アパートに向かう間の車内でも高校時代のような無邪気な会話はなかった。
 知子は通り過ぎる街並みを見つめ、直哉はそんな知子の瞳の先を見て、彼女の今に昔の影を見出そうとしていた。
 グランドゼロを通り過ぎる時、知子の瞳が一瞬霞がかった様な気がしたが、そこに直哉が求めていたものは見いだせなかった。

 部屋に入ると知子はバッグを玄関に置き、流れるようにセラーからワインを取り出した。

 「座ってて」

 家具の少ない無機質な部屋のソファーは妙に柔らかく、埋没してしまいそうな感覚に襲われた。
 知子はワイングラスとオリーブの載った皿をローテーブルに置くと直哉の隣に座った。

 「乾杯」

 軽くグラスを合わせると高い反響音が直哉の頭を揺らした。とても近い距離にいる知子からはあの頃のようなシャンプーの香りはしなかった。代わりにキツいムスクの香りがした。
 その大人びた香りは直哉の酔いを加速させた。いつの間にか自分のグラスが空になっている事に気付いた。直哉はボトルを掴み自分のグラスに注ごうとしたが手に力が入らなくて知子に寄りかかった。
 大きな瞳と目が合うと直哉はもうどうでもよくなってしまった。変わってしまったとしても知子は知子なのだ。
 勢いに任せてその厚い唇に自分の唇を重ねた。すると知子は抗う事もなく直哉を受け入れた。

 意識は朦朧としているのに床の上で服をはぎ取り合う手には何故か力が入った。知子を失くした後の空白への恐れが力を込めさせたのかもしれない。

 「ねえ。本当は全部見ていたわ」

 いつの間にか上になっていた知子が直哉の耳元で囁いた。

 「公園での事。一つ残らず」

 艶めかしく笑った厚い唇が、激しい上下運動の為に揺れた。直哉は思考能力を失っていた。身体の力は抜けただ一部分の快感だけが彼を支配していた。

 「ふふ。ほんと、直哉君って謎が多いのね」

 言葉を発する度に知子は体位を変え直哉の快感の質を変化させた。その度に、自分の心の錠前が外されてゆくのを直哉は感じていた。

 「ねえ。いつからあの仕事やってたの?」
 「あの頃からさ」
 「やっぱり」
 「どんなふうに殺すの?」
 「銃とか。ナイフとか」

 自分が何を喋っているのかさえ、直哉には理解できなかった。知子に対する様々な想いさえも消えていた。
 あったのは、抗うことのできない快感とその快感を増幅させる背徳心だけだった。

僕は37歳のサラリーマンです。こらからnoteで小説を投稿していこうと考えています。 小説のテーマは音楽やスポーツや恋愛など様々ですが、自分が育った東京の城南地区(主に東横線や田園都市線沿い) を舞台に、2000年代に青春を過ごした同世代の人達に向けたものを書いていくつもりです。