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残りの人生を何に賭けるかの動機について

梅雨の晴れ間、皆さんいかがお過ごしてしょうか。


今回はずいぶんとまぁスケールの大きなタイトルにしてしまいました。

ただ、アラカンの私にとっては中身の大小はともかくとして、けっこう身近な問題でもあります。

私の残りの人生への勝手なイメージは、その人に与えられた目の前の日常生活を淡々とこなし、楽しむものがあって余裕があればそれを楽しんだり探求し、そして身体を労りながら感謝の気持ちを忘れずフェイドアウトしていくという感じです。

他人からみれば、たぶん私はしあわせな部類なんだと思います。しあわせの定義については長くなるのでふわっとさせておきますが。ただ自分の人生に納得している訳でもありません😓


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私の友人は、長らくボランティア的な社会活動をしています。当初はその理念にとても共感して始めたのでしょうが、だんだんその理念に対する気持ちも薄らいでいて疑問に思うことさえあり、またその組織自体ももう先細りであるという。

その方は60代。今までお世話になってきたから、自分はその活動を今後も続け、最後まで見届けてから死ぬつもりだと言います。

ボランティア活動は尊いし素晴らしいことです。活動をしている人にしか味わうことの出来ない充実感もあるでしょう。

でも中身の理念や自分の気持ちは横に置いておいて、お世話になったからという気持ちの動機だけで動けるものなのでしょうか。

人それぞれいろんな考え方で生きているので私みたいなものがとやかく言うことではないのは重々承知しています。

動機づけとは

動機づけとは、行動を始発させ、目標に向かって維持・調整する過程・機能。 動機づけは人間を含めた動物の行動の原因であり、行動の方向性を定める要因と行動の程度を定める要因に分類できる。動物が行動を起こしている場合、その動物には何らかの動機づけが作用していることが考えられる。

Wikipediaより


人間関係もあるのでしょう。そこのコミュニティがとても居心地が良いのかもしれないし、お世話になった人のお役に立ちたいという熱い想いがあるのかもしれない。人とのつながり大事にしたい人は多いです。

けれど、頭でっかちの私は、その活動の理念に❓クレッションマークなのにお世話になったからという動機だけで残りの人生を賭けられるのかなと漠然と思ってしまいました。

人生残り少なくなってくると、活動の理念より自分の行動の達成感を求めることが原動力になる人もいるでしょう。

個人の趣味活動などは達成感を求めるものだから、それはそれでよく理解出来ます。好きな事だからやってみたいという意欲も出てきます。

それこそ多様性の時代。いろんな考え方で人は自由に生きていいのです。

何のために生きるのか、活動するのか、なんてそんな青臭いことを頭だけで考えている私は精神的にはまだまだ若く未熟なんでしょう。

いろんな大人の事情で活動し、そうせざるを得ない環境の人は世界にたくさんいると思います。

私は平和ボケなのかもしれませんね。


お忙しい中、最後までお読みくださりありがとうございました😊


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