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♯闘病レポ07[夜中の緊急オペ]。命の危険を宣告された先で”生きている”こと自体が価値だということを知った。

健康体だと信じてやまなかった私が手術を受けるに至ったわけですが。手術後に合併症となり、突然、「命の危険がある」と宣告されて、緊急手術をしました。死にそうだと思った時、そこにあるのは「無と恐怖」。身体の震えが止まらないのです。

そして、処置が成功した時、”ただ生きている”ことを泣いて喜んでくれる人がいることに気づきました。生きて存在するだけで価値があるよって言ってもらえた気がして。あとは、現在過去未来、いろいろあるけど、”いま”を最も大事にしたいと思いました。人生観に影響を与えたできごとでした。

前回、膵液が及ぼす合併症の恐ろしさや合併症について書きました。今回は膵臓の手術における最大リスクである動脈瘤、出血、そしてカテーテル手術、生還。という出来事や、それを通して思ったことや感じたことを書きます。
かなりマニアックな内容でレアな合併症ですが、いつか誰かの役に立てばいいなと思って書きました。ご参考までに読んでいただけると幸いです。

1:術後16日目。深夜に「命の危険宣告」。手が震えて平常心が保てない。

それは突然の出来事でした。
深夜2時30分、看護師さんに起こされました。
「出血しているので、先生呼びます」

ふとお腹の管の先を見ると、膵液が排出されているバッグの中が200ccほど溜まっており真っ赤に染まっていました。中には5cmくらいのレバーのような血の塊も浮いていて、膵液が身体を溶かして、動脈に傷がついたのだと察知しました。意識ははっきりしています。

その後、血圧を測り安静にするように言われました。30分後、私服に白衣を着た先生が来てくれたのですが、様子から明らかに急いでいて、これは非常事態なのだと感じました。

「命の危険があります。血管に損傷があるので処置を検討します。今すぐご家族に来てもらってください」とのこと。状況は飲み込めませんでした。

看護師さんからは「家族に電話をかけたが繋がらないので、本人から連絡を続けてほしい」と要望がありました。
その後、夜勤の看護師さんが総出でバイタルを継続的に測ったり、私の意識レベルを確認したり、ストレッチャーの用意をしたり、点滴の針を追加で入れたり。病室は夜中にも関わらず、タダごとではない雰囲気に包まれました。出血状況の確認で造影剤CTを終えた後、ICUに入ることが決まりました。

恐ろしくて、手が震えて止まりませんでした。震える手でやっとこさスマホの通話履歴から家族に連絡すると、夜中の連絡で驚いていました。
「出血してしまって命の危険があるらしく、家族にとにかく来てもらう必要があると言われてる」と伝えると、死にそうな本人からの電話に?マークが浮かんでいたようですが、冷静な様子で「わかった」と言って電話を切りました。

次の日には、ちょうど友人や会社の後輩のお見舞いの予定があったので「ごめん、ICUに行くからダメになった」と短文の連絡を入れました。変に冷静に判断していました。

ただ、ふと気づくと、血が通ってなくて手足は冷たい。恐怖で勝手に震えてしまう手を看護師さんが強く握っていてくれました。人肌の温かさと感覚がとても落ち着きました。“お手当て”の力はとても大きかったです。

2:緊急度の高さが実感になってゆく。造影剤CT撮影。

まもなくストレッチャーでX線の検査室に行くことになりました。胸には心電図を付けて、更に出血しないよう、身体を動かすなと言われました。深夜の暗がりの院内をストレッチャーで動く。その音が廊下にガラガラと響き、都度バイタルチェックをしており、先生や看護師さんの緊張感がこちらにも伝わってきました。

造影CTの撮影は何度もやっているはずなのに、その時は寒くて気持ち悪さを感じました。無症状だと思っていましたが、やはり体調がよくなかったのだと思います。 

検査の結果、断続的にドバドバ出血している状態ではありませんでした。ただし、再度いつ出血してもおかしくない状態で危険であることは変わらず。そのままICUへ向かいました。

3:不幸中の幸いが重なり、ICUで手術の準備。

ICUに到着すると、無機質な広い空間で大きな心電図などの最新ぽい機械が備え付けられた部屋の中央のベッドに移動しました。ベッドはセミダブルくらいでふかふかでした。

看護師さん4人がかりで手術着に着替えさせてもらい、手首の動脈に針をさして血圧計をつけました。導尿管をつけて、毛を一部剃り、あれよあれよと成されるがままに手術の準備をしました。
緊急事態すぎて、男性の医師もその脇で準備を進めていましたが、もはや恥ずかしさも何も感じなかったです。この時はただ「無」。向き合うしかない現状を受け入れ、ただただ自分でできることをするのみでした。

その後、先生からカテーテル手術をすることを告げられて、同意書にサインをしました。内容は、左肘と右そけい部から細い管をいれて、膵臓周辺の出血原因となっている血管をコイルやステントで潰すという処置です。心臓手術の技術の応用をしたものでした。
また、この処置が専門性が高いもので、他の病院から医師を呼んで行うので、医師の到着を待つということでした。朝6時から手術開始予定となりました。

その後、朝5時過ぎに親が到着。顔を見て手を握ってもらってほっとしました。不安そうな顔をしていましたが、私が意識がはっきりしていたため落ち着いていました。その後、親は別室に呼ばれ、先生から詳しい状況を説明をうけて、リスクの説明を聞き同意書にサインをしたらしいです。過去は、出血したら開腹手術のこともあったようですが、カテーテル処置はここ5年程で可能になったらしく、今の時代に生きていて良かったと思いました。

4:ぼんやりした意識で乗り越えたカテーテル手術。

ICUの隣のお部屋が無機質な手術室のようなところ。大きな機器やモニターが並んでいました。循環器科の先生も待機くださっており、手術の準備が始まりました。

ここからは、うる覚えです。
鎮静剤を希望し、なるべく意識のない状態での処置を望みました。他の病院から先生が到着。ひと目見るなり、「えー若いね!この歳でこの修羅場くぐれたら怖いものないね」と。私の年齢の若さに驚かれました。そして、BGMに倉木麻衣と宇多田ヒカルとドリカムが流れ始めたのですが、ガチガチに緊張していたため、そんな会話や音楽にも心が和みました。

カテーテルは左の肘の内側、右足の付け根から入れていくことになりました。太い針をいれて、管を入れる準備をしていきます。X線で身体を透視しながら、大きなモニターを見て処置を進めてゆきます。

鎮静剤でほぼ意識はないのですが、その針の部分から、何か管みたいなものが体内を進んでゆくのがわかりました。「もっとどんどん進めて!」とか聞こえてきます。特に、肘から脇を通ってお腹の方に進んでいくのが気持ち悪かったです。ぼんやりしながら、先生たちの指示が聞こえるのが恐怖でした。

造影剤を血管にいれながら、処置を臨機応変にきめているようでした。先生たちは膵臓周辺の血管を見ながら、“どの血管が破れたのか”を話し合っていました。幸い血はドバドバ出てないが、そのために該当箇所もわからない状態。

結果、膵臓周辺の可能性のある動脈は3本あり、そのすべてをコイルで血液の流れがないようにし潰し、ステントで補強することになりました。2度と起きないようにするためです。コイルを入れる際には、「心臓用のないの?」とか、「●番もってきて!」みたいな先生たちの厳しい指示が聞こえてきました。

開始から5時間か6時間、意識はとぎれとぎれでした。最後には麻酔が切れてきて、痛みで汗が額や背中をつたい、失神しそうでした。今までで一番痛みに耐えた経験となりました。

その間は、走馬灯でも走ればよかったけれど、ただただ「無」で、「生きたい」という気持ちでした。唯一頭に浮かんだのは、高須クリニックの院長が全身ガンで戦っていてもピースして写真に写っていた映像で、わたしも痛くて気を失いそうな所を堪えられました。特に院長に思い入れはないけど、辛い時こそ笑顔である姿勢がかっこよくて、負けてられないみたいな気持ちだったかもしれません。

「無事、終わりましたよ」
ようやく処置が終わった時は、ほっとしすぎて生きてる心地がしました。「ああ、わたし生きてる」と先生の顔を見て心から声がでました。処置室のなかは、全員が疲れ切っていましたが、不思議と安堵につつまれていました。夜中からずっと処置して命を救ってくださった先生方には感謝してもしきれません。本当に先生たちに出会えてよかった。

その後、カテーテルを入れた動脈の止血で15分ほど先生が体重をかけて圧迫しました。これがめちゃくちゃ痛かったのですが、とても重要なのだそうです。脚の付け根一帯が、青い紫っぽいアザになりました。

5:手術は成功。わたしは、生かされた。

手術が終わると、昼の12時を過ぎていました。ICUに戻り、家族が寝ずに待っていてくれた、その顔を見たら泣けてきました。
意識朦朧としていましたが、「わたし、生きてるよ」と泣いたような気がします。動けないので流れた涙を自分では拭くことができなくて、母に拭いてもらいました。
医療の発展と、専門の先生が捕まったこと、いろんなことが奇跡に思えました。

動脈の止血のため、1日身体の寝返りは禁止。両手、胸、そけい部、足、いろいろ管につながっていました。もちろん絶飲食です。身体を固定されて動けないのは辛かったのですが、夜中からの緊張の糸が解けて、疲れがドッと襲われ眠りにつきました。

6:数日間のICU、絶飲食と安静で山あり谷あり。

数日間はお腹の管(ドレーン)から出る液体は真っ黒でした。お腹の中で出血したものが、酸化したもの。ICUでは“新たに出血しない”ことが目標で、寝返りのサポートや清潔ケアなど、ほぼ私は身体を動かすことなく細かくケアをしてくれました。

ICU入室は初めての経験でした。生命の危険がある集中的に治療する場所であるため、治療を第一にし、快適さなどは優先順位の低い空間です。常に緊急事態がどこかで起こっていている。そんな救命の最前線の場所なので、安らぐような場所ではありませんでした。
家族しか入室できず、携帯禁止。テレビもなく、全私物に名前を書くルールがありました。パンツにもパジャマにも、夫がひらがなで名前を書いてくれました。こんなのは幼稚園ぶり。その文字が愛らしくて気に入っていました。

手術の次の日はほぼ記憶がなかったですが、意識がはっきりすると痛みがあったため、鎮痛剤を打ってもらい、しばらくは睡眠導入剤で眠りについていました。トイレにはいけず、導尿管で過ごしました。
その後、39度弱の発熱で細菌感染の検査をしたり、抗生剤を変えたらコロっと治ったり、良くなっては、少し悪くなってを繰り返しながら、都度賢明な処置をしてもらいました。
そうして、術後4日目から、ようやく流動食を開始し、本を読んだりできる気力と体の調子に戻っていきました。

7:術後22日目。閉鎖空間を出て、空と緑が生きる欲をくれた。

食事が取れて熱も下がり体調も安定したため、ICUを出て一般病棟へ移ることになりました。
常に緊急事態の雰囲気で、窓もない閉ざされた世界だったので、外に出られたことに、ほっとひと安心しました。

一般病棟へ車椅子で院内を移動する途中に、廊下に面した大きな窓から青空や街路樹が見えました。梅雨で雨続きだったが、入院後はじめて晴れた空。空の青、太陽の光、みどり、人の気配、すべてのものが特別に美しく見えました。ああ、わたし生きてるんだと。

今日明日のどうなるかわからない病に向き合っていたけれど、その時、明日やその先の未来への希望みたいなものが、むくむく湧いてきたのでした。

一般病棟の病室に到着して、しばらく友人たちに連絡できませんでした。なんだか、当たり前の生活に戻れたことが嘘のようで信じられない感覚で慣れなかったのです。テレビをつけると、いつもと同じワイドショーで変わらぬすこしくだらない話題を取り上げていました。平和だ。これで我に帰り、心を落ち着けて、「生きて帰ってこられた」とスマホで連絡を入れることができました。

ICUには5日間いたのですが、その間に友人たちにお見舞いにきてもらう予定を立て続けにキャンセルしてしまっていました。そのせいもあり、一般病棟でスマホを立ち上げると、心配して友人たちが連絡をくれていました。ひとつずつ返信をして、「本当に無事でよかった」と喜んでくれました。私はとても驚きました。生きている報告で、こんなに喜んでくれるなんて、信じられないくらい嬉しくて。

25年以上一緒にいる親友は「元々予定した日に都合が悪くて会えなかったので、自分が日程変更したせいで、二度と会えなかったらどうしようと自分の選択をずっと後悔していた」と涙を流していました。
わたしは友人の気持ちに心がぎゅっと締め付けられ、そんな思いをさせてしまったことの申し訳なさと、また一緒に時間を過ごせるチャンスがあることに対して、安堵がこみ上げました。こんなに心強い友人がいる、一生の宝ものにしなくちゃと、一緒に泣いて笑いました。ありがとう。

さいごに。感じたことや教訓。

明らかに人生観や死生観に影響を与えることとなりました。まだ整理しきれていませんが、まとめてみます。

”足るを知る”ができると、自己肯定感がむくむく芽生える。

死ぬかもしれない境地に立たされて、ただ生きていることに喜んでくれる人がいた時、生きていること自体が価値なのだと気付けました。
友人は大事だと思いながら、自分が存在することが価値だとは思わなかった。私は相手に何かプラスなことを提供できているのだろうか?と、不安になってしまうことがあったのです。

何故だろうと考えてみました。
お恥ずかしい話ですが、気づかないうちに相手にとってのメリットを提供し続けることで存在価値が保たれるという呪いにかかっていたのだと思います。
仕事上では最上志向が強くて、自分に出来ないことを多く感じて、自分が発揮できる価値を最大化しようと必死になる性分です。それが悪い方向に自分自身を蝕み、いつの間にかwin-winの呪いにかかっていたのだと思います。

存在自体が価値だと思えると、その人が好きとか、一緒にいたら心地よいとか、ただ話してゲラゲラ笑いたいとか、そういうことを大事にできる。一気に気が楽になりました。

“万が一”は訪れる。でも、“そのうちいつか”は来ない。

膵臓の合併症は恐ろしいです。今回、この合併症は数%の確率で発症するものでした。その他の合併症もあわせて、数%の確率に何度もぶち当たるとは思いませんでした。執刀してくれた先生も1000件以上で初のことだったようです。万が一は、来てしまうのです。明日が来るなんて保証はない。「その内、いつか」は、もう来ない可能性がある。

特に、人に会いたい、と思ったら迷惑と思わずに連絡してしまおう。両親と旅行に行こう。大事な人には用事がなくても連絡してみよう。いまこの瞬間を大事にする、そんなことを思いました。

そのふたつの教訓からは、愛や感謝は感じたらその時にすぐ、いま、伝えることが大切だと思い、当たり前に身近にいてくれる人へは、特に大事にしていることを言語化して伝えたいと思うようになりました。

たのしい、おかしい、すき、ありがとう、おはよう、おやすみ、おつかれさま、いただきます、おいしいね、とかそんなことだと思います。

万が一は来るし、いつかはもう来ないかもしれない。日々は宝ものです。


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