青春の終わり


羊文学の「ドラマ」という曲が好きで、よく聴いている。平熱と微熱をない混ぜにしたような声質、徐々に沸き立っていく音像、といいところはいっぱいあって、それぞれが不可分に絡み合って形をなしているのだが、何より歌詞が一番耳に届く。

青春時代が終われば
私たち、生きてる意味がないわ

羊文学「ドラマ」

冒頭、ギターと共に語られるこの歌詞が耳にこびりついた。特別な言い回しでもなんでもないのだが、前述した声質と音像によって非常に想像がかきたてられた。

この曲は、彼女らの1stフルアルバム「若者たちへ」に収録されている楽曲で、タイトルといい、1stアルバムといい、「若さ」を表現する時期として適切といえる(音楽好きはしばしば、1stアルバムに意味を持たせがちである)。

歌詞を読みながら聴いていくと、若さを持て余した女性のフラストレーション、もっと具体的にいえば、青春の只中にいて充実しているが、閉塞感を感じずにはいられない状態にいる女性が、浮かんでくる。 

しかし、今回はそんな安易な想像は打ち消して、冒頭の歌詞を敢えて曲解し、自分なりのかきたてた想像をかいていきたい。

まず、舞台は学校であり、楽曲での青春とは、そこでの生活全てを意味する。そして、そこでの鬱屈したモラトリアムなんてものをそこに挿入する前に、「いじめ」という突如湧いたアイデアを代入してみる。

聴きながら思うのは、学校という社会は外側から見ればれっきとした教育機関であり、一つのコミュニティなのだが、学生自身にとっては、社会であり、世界であり、全てだということだ。

いじめ、もしくは学校で生じるディスコミュニケーション全般にもいえるかもしれないが、よく解決法として言われる「逃げろ」という助言はある意味通用しないと思っている。もちろん、それが全てを解決することもあるし、そこから間口を広げて第三者に助けを求めれば、抜本的な解決に向かう可能性もある。しかし、私が言いたいのはそうではなく、我々が学生にいう「学校が全てじゃないから、社会に出ればもっといろんな場所があるから」のような言葉は、正論だが当事者である学生に対しては何の気休めにもならず、学校が全て、青春が全て、そしてそこから地続きである将来の全て、という漠然とした巨大なイメージに立ち向かうには、あまりにも弱いということを主張したい。

羊文学の歌詞は、青春が終わってしまう物悲しさ、それに対する不安があっていじめの話とは真逆のように思えるが、実は同じ「学校という全て、青春という私たちのすべて」を共有しているような気がする。「私たち、生きてる意味がないわ」の部分には、何か文字数以上の情報がふんだんに詰め込まれているように感じて、腑に落ちる。

私もまだまだ若者で、学生気分は抜けないし抜くつもりもないが、学校という、天国と地獄の両軸が交差する場で生きる若者に非常に関心がある。いじめによる自死、もしくは半ば他殺的な自死のニュースを見た大人たちは、「学校がすべてじゃない」的な紋切型のことを言うが、当事者にとって、学校が全てであることは揺るぎようがなく、その先に断続的/断絶的な将来、両義的であいまいな未来が待っていると言いたい。過去/現在/未来の要素が圧縮された状況にいながら、ふくよかで自由な振る舞いを求められてしまう。残念ながら、自死してしまった子供たちは社会と世界に虐げられ、来るべき青春の終わりを迎えることはとうとうなかった。人間たちの渦に遭難し、ただただ何者かによる避難救助を待っていた。

私たちにできることは、考え続けることである。この文章で、私が一曲を聴いて関連があるようでないようなことを考えたように、日々消費される文化をなるたけ意味のある消費にしていく、そのようなことを考え、考え続けている。



#音楽 #いじめ #羊文学 #雑記

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