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千葉のなかのTOKYO

(この記事は2021年に書いたものです)

noteを始めて一周年のバッジを頂いた。回想録を中心にいろいろと書いてきたが、今日は思い入れのある成田国際空港について書いてみようと思う。私は開港と共に開発された新しい町に県外から移り住み、そこで仕事もしたし、そこから海外へも旅立った。

開港当時の名称は新東京国際空港。千葉県にあるのに何故東京?だとか都心から遠い空港などと揶揄されたが、2004年には成田国際空港と名を変えて今年で開港43年目を迎える。歴史をたどれば空港建設に対する地元住民からの激しい反対運動に始まり、次第に過激化、暴動やテロにまで発展した紆余曲折があった。農家の肥溜めの糞尿投げから武器は火炎瓶へと変わり、死傷者も多数でた。今では反対派の老齢により世代も変わっていく。

二本目の滑走路の用地買収に承諾し、代替地に移る事を決めたある農家の畑に行った事がある。その夜、街灯も無い畑に赤いライトを点滅させながら黒い物体がこちらに向かって降りて来るのを見た。耳を塞ぎたくなる轟音と共に、頭のほんのすぐ真上に飛行機の腹を見て私はびっくりした。それはまるで、真っ暗い夜空にUFOでも通り過ぎて行ったかの様だった。こんな所にはとても住めたもんではないだろう。

かつて反対派が占拠した旧管制塔も老朽化で解体と聞いて、改めて月日のながれを感じた。私はこの管制塔のある旧空港公団のビルのそばに車を停めて、ターミナルの医療施設でしばらく働いたことがある。三十年以上たった今でも忘れられない事がいくつかある。

ある日、白人女性が小さな赤ちゃんを抱いて空港内の診療所にやって来た。長いフライトの為、赤ちゃんの診察を受けに来たと言う。この白人の年配女性はアメリカで養子縁組を世話するエージェントの人で、中国に行ってこの赤ちゃんをもらってきたと言う。何かの理由で赤ちゃんを育てられない中国人の母親からこの乳飲み子を預かり、これから飛行機を乗り継ぎアメリカ本土で待つ養親希望の夫婦に渡すのだそうだ。

「この子はとても裕福な夫婦に引き取られて、幸せになるのよ」と白人女性は微笑みながら言った。

私の娘がハワイの幼稚園に通っている時、同じクラスの女の子の父親が私に教えてくれた。彼はそのお嬢さんを養女に迎えたのだが、ご自分で中国まで行って赤ん坊だったお嬢さんを連れて来たらしい。アメリカでは養子をもらう事は珍しい事ではないし、周りにも隠さない。おまけにこんな小さな子供にも養女である事を告げるのだ。

もうひとつの忘れられない出来事は、「機内で産気づいた外国人がいる」と連絡を受けた時だ。私とドクターは往診カバンをもってすぐに診療所を出た。空港のスタッフに案内され着陸したばかりの沖止めされた旅客機に乗り込み奥に進むと、座席の途切れた床の上にブランケットを敷いて横たわる妊婦さんがいた。大きなお腹を押さえてつらそうに陣痛に耐えているその人は不安そうに私たちを見上げた。私はあわや、こんな場所で出産介助かと思いきや診察を終えたドクターの言葉に安堵した。

「まだ、生まれるまでには時間があるから救急車ですぐに病院に行きなさい」と。

私とドクターはやれやれと、さっき登って来た飛行機のタラップを降りようとしたその時、階段の下に人混みがあるのに気づいた。カメラを抱えた新聞記者たちが待っていたのだ。

「産まれたんですか?」「どんな状況ですか?」と我先に質問を私たちに投げかけてくる。人混みをかき分けながらドクターは「まだまだ」と言って手を左右に振った。

「なんだ….」記者たちはスクープ記事を書けず、がっかりした様子で散らばって行った。私はこんなに早くニュースを聞きつけて、やって来た記者たちにとても驚いた。彼らには悪いけど機内で出産にならずに本当によかった。


空港には色々なドラマがある。別れもあれば出会いもある。これから旅に出るという期待と喜びを胸にどれだけの人たちがそこを飛び発ったことだろう。私もスーツケースたった一つで数十年前そこから飛び出した。若さはバカさで不安も恐れも感じさせなかった。そういう飛び立てる場所があるというだけでも尊いと思う。

開港に纏わる事で多くの人たちの思いが、その場所には眠っている。たくさんの人の涙が、汗や悲鳴や罵声が、未来を思うがゆえに行き交うことになった。口に出すのはおこがましいが先人たちのそういう気持ちを、たまにちょっと思い返すことが感謝に繋がると思う。

New Tokyo International Airport の世代より

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