4) 悪夢の知らせ
「なんでそんなとこで正座なん?ソファか椅子にすわったらええやん」
「ここがいいの。落ち着くから…」
真昼の日差しが入るリビングのすみで、母がカベを向いて正座している。
「夜は寝れた? 体は大丈夫?」
「寝てない。頭が重たいの。脳が圧迫されるみたいで不安になる。ごめんね…。私が悪いの」
2畳ほどの衣装部屋で、包丁をもってしゃがみこむ母。
仕事から帰宅した父がリビングに母がいないことに気づいて、母の名前を呼んでいる。
リビングのソファーで父の声を聞く私。
閉じ篭もる母を見つけた父が怒鳴りつける。
「おまえは何してんねん!なんでそんなに弱いんや!」
感情のタガが外れた母は大声で泣いている。
父を振り切って、包丁を振り回す母。
「なにしてるん!やめろや!」
目をさますと、自分がいる場所がどこなのか分からなかった。
「タイや…夢か…」
ランチのあと、心配になった私は2週間ぶりに家に電話をした。
しかし、何度コールしても誰も出ない。
「また、明日にでも電話しよ…」
そのうち家に電話することも忘れて遊び呆けていた。
香辛料の匂い、バイクタクシーとの値段交渉、元気で明るい女の子たち…。
初めての海外での長期滞在は20歳の私にとって興奮の連続で、つたない英語を駆使して現地の人々と話すのが楽しかった。
両親のことや、大学受験の失敗、そして自分の将来が見えないこと…。
わずらわしい事は何も考えなくて済んだ。
昼すぎに起きて海辺で本を読んだり、夜にはタイの若者達と酒を飲み、いい加減な英語で朝までバカ騒ぎする日々。
友人と一緒に気が向くままに、時間と金を消費していれば良かった。
日本を出て1ヶ月後のある日、クラブで出会った仲の良さそうなタイ人の夫婦と飲んでいて、ふと両親のことを思い出した。
オカンとオヤジ、元気かな?
翌日の昼過ぎに目を覚まし、ふらふらと部屋を出て、街角の公衆電話から自宅に電話した。
電話にでたのは父の職場の同僚だった。
なんで?
受話器ごしに聴いた兄の声は震えていた。
大変なことが起こったようだ。
2人とも死んだか?
家で泣きながら包丁を握りしめる母…。
両親が車で単独事故を起こしている様子が思い浮かんだ。
「なんやねんこれ…。
なんで帰らなあかんねん…」
これは現実か?また悪夢が始まったの?
埃っぽいクラビの町を宿に向かって歩きながら、考えれば考えるほど2人はもういないような気がした。
蛍光灯がチカチカと明滅する安宿のシングルルームに戻る。
友人に事情を話してチケットの手配など帰国準備をしてもらった。
何も考えられない。
両親は死んでるかもしれない。
兄の震えた声を思い出すと、みぞおちの辺りに重たい異物がひろがり息がつまる。
1人で前後不覚になるまでウイスキーを飲み、胃の中のものを全て床に吐瀉して気絶するように眠った。
混乱で何もできない私を心配した友人がタイからマレーシアまで送ってくれて、1人日本への飛行機に乗った。
ただ、両親が生きていてくれることを願って。
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